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大晦日、元旦を、信州のトアル精神病院で、 過ごした、あの年の瀬は、忘れられません。

 

 

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晦日、元旦を、信州のトアル精神病院で、

過ごした、あの年の瀬は、忘れられません。

寒かった。とても、寒かった。

晦日、おそばが出たのかどうかは、もう、忘れてしまった

ただ、元旦に、お餅が、お雑煮が出たのですが、

それが、

ナントも形容のしようのないモノで

形容のしようがない、スゴイものでした。

とてもじゃないが、食べられなかったのです。

でも、普通食のお雑煮を、お盆の上に、のっけている、

ぼくの方を

そうではない、おじいちゃんやおばあちゃん達が

じぃぃぃっと、見ているのです。本当にじぃぃぃぃぃぃーーっとね。

ぼくは、もちろん、食べたんデスヨ、もちろんね。

 

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電気ショックもアッタんです。

飯は、ヒドかった。

弟を殺した人もいたんです。

保護室で、放火した人も、いた。

二人とも、死にました。

コロサレタにチカいかな・・・・

忘れられません。

 

弟を殺してしまったタさんが

あの時

こう耳元でささやいてくれた

医者にはさかろうたらあかん

ぜったい、入院中は、医者にはさかろうたらあかん

一度も退院することもなく

電気ショックをやられ続けたアタマを抱えて

死んでいった

後に残されたのは

膨大な量の岩波文庫の本だったハズだ

ハズというのは、その時、ボクは、退院できていたから

シャバにもどれていたのです

みんなを置いて、ボクは、シャバに、京都に戻って来れましたから・・

あの時

のハナシは、また後になる

あの時

タさんは、ぼくの耳元でささやいてくれた

医者にはさかろうたらあかん、と。

 

保護室に入るなかまを、保護室の前まで、見送っていった。

看護士に取り囲まれて

見送っていきました

看護の日勤帯が、終わる時間になると

いつもいつも、保護室に向かうなかまの

傍らを

二階のB2病棟まで、送っていった

日勤が終わるときの、恒例のパレードだった

ナンデ、あんなに、大勢の看護士が看護婦が、取り囲んでいたのか

二人で、脱走するとでも、想ったのか

そのたびごとに、こう言っていた

またあした、会いましょう、ってね

そうやね、おやすみ、ってね。

こう言って

保護室の前で

分かれたものだった

目の前で保護室の扉が閉められた

春には退院できて、うまくやっているものだとばかり

想っていたが、

秋になる頃には、もう、死んでいた

 

深夜に火災報知機のベルが鳴り響く

またか

かましいな

またや

部屋からゾロゾロ出てきて

ふつう火災報知機が鳴ったら、

火事かもしれんと、逃げる準備のハズだが

ココでは、ソンナことはない

みんな、ゾロゾロ部屋から出てきて

デェイルームの、あの安っぽい食堂のテーブルとイスが

並んだところの定位置に、座りだすか

造り付けのグリーンの擦り切れた長椅子のある

あのコーナーに、座って、鳴りやむのを待っていた

かましいな

寒いねーーー

今度は、誰が、やったのかな

今日も送っていった彼じゃないか

とおれに問いかける

そうしてやっとこさ鳴りやむころに

何処からともなく

あの彼が保護室で火をつけて布団焼いたらしいで

と云うハナシが、伝わってくる

みんなおれのほうをみている

アンタがライターわたしたんだら

ぼくじゃないですよ

じゃあどうやって手に入れたんずら

なかなか、あの若いの、やるな

看護士からケッコウやられるぞ、こりゃあ

眠気さめた

追加眠剤貰いに行こうかな

そのうち、詰所から看護士が出てくる

みなさん、もうそろそろ部屋に戻って寝てください

火災報知機の説明は無い

看護士さん、追加の眠剤貰えますか

ああ、いいですよ、取りに来てください

ほかのヒトも、入りますか

おれもおれも、と、ゾロゾロ何人か

詰所に向かって行く

おれは部屋に帰ろうとするが

ナさんだけ、そこに残っている

ナさんは部屋帰らないんですか

と聞くと

おれは、ここで、いいんだ

と言って、その造りつけのソファーに横になった

おれは、ここで、寝るんだ、と言う

その人は、部屋のベットでは寝ないという

寝れないという

このソファーで寝るんだという

背広というかジャケットというか

上着をキチンと着たままで、いつも、そこで寝ていた

そういえば、部屋のベッドで、寝ていたこと、無かった

看護士も、それを許していた

特別なことだった

なぜなのかワカラナイママになったのだが

おそらくは部屋のベッドで寝ていてナニカあったのだろうと想う

看護士すら、ベットで寝なくても良い、という事になるほどの

ナニカが・・・

 

タさんが

あるとき、弟をコロシテシマツタんだ、と、言った

唐突に言った

あまりに唐突に、突然言った

おれは、どう答えていいのか

分からず、どう反応し様もなく、凍り付いて、ドキマギしていた

電気ショックをやられ過ぎで

アタマのカタチが、変わってしまったんだ、と、言った

いつもアタマを抱えて、岩波文庫を読んでいた

ぼくも妹を半殺しにしてしまってここに来たんですよ

と言おうかな、と、想ったが、結局ナニモ言わず、

電気ショックでアタマのカタチ変わったんだ、というハナシを

ずっと聞いていた

電気ショックを何回も何回も

アタマのカタチが変わるほど、やられたんだよ、そう言って

タさんは、アタマを抱えながら、本を読むのだった

 

トさんが、言った

あの日は天気はよかったんだが、波が高くて大変だったんや

天気は良かったんだよ、天気は良かったんだが、

でも、波が高くてね、波が高くて大変だった

と繰り返し繰り返し、言った

トさんは、それしか言わない

それで、ぼくは、もしかして東郷元帥ですか、と、尋ねたんだ

彼は、ぼくを見て、ニンマリ笑って

こう言った、いつもより、幾分はっきりと、大きな声で、こう言った

あの日は波が高くて大変だったんだ!!!!!!

彼が外出するのも、散歩に出るのも、

大体、病棟から出るところも

見たことがなかった

そもそも、部屋から、出ていないようだった

ぼくの退院が決まった日、挨拶に行くと

あの日は波が高くて大変だったのだ、と、いつもより、小さい声で

ヒッソリと言った

退院した後、面会に行くと

彼は、ぼくに、ナンニも、言ってくれなかった

まるで、ぼくが、ソコには、存在していないかのように

タイインシテシマッタぼくは、彼を、裏切ったのだと、想いしった

退院してしまって、裏切ったのだと。

その後、退院したぼくは、入院していた病棟に、面会に行った

お見舞いと云うよりは、面会に行った

考えてみれば、あの時以来、入院していた病院に、

なかまを訪ねて、面会し続ける、と云う、ことになったのかもしれない。

東郷元帥に感謝すべきなのか

恨むべきなのか

その時から、ぼくは、10年以上経って「バクチク本」を持って行った。

東郷元帥は、もういなかった。

それから、また、15年も経ってしまって、コレを書いている

東郷元帥は、今は、ドコにいるのだろう。

 

バクチク本をもって、再訪した時、病棟のほとんどのヒトたち、

そのマンマ、あの病棟にいた。

時間が止まったかのように、みんな、そのまま、ソコにいた。

もっとも、ナンニモ変わらずにと云うわけではなかったが、、

十年前は歩いていたヒトたちが、車いすに、なっていたのだが、、、、、

タさんに読んでもらおうと、持って行ったのだケレド、

彼ダケは、ソコには居ず、もう、ぼくを誰だかわからなくなっていて、

意識も、なく、

ありていに言ってしまえば、植物状態で、

病院から離れた老人施設のベッドに横たわっていたの、

だった。

看護婦に言わせれば、原因不明の感染症によって、そのような状態になり、

この施設に移された、と云うことだった。

枕元に、バクチク本を置いて、帰ってきた

京都に帰ってからも、ずっと、ハガキを送り続けていたのが、、、

良かったのか悪かったのか、ただ、そのせいか、

ほどなく、彼が死んだ、という知らせが届いだ。

知らせてくれただけ、マシか、と、想った。

友の会の夏レクの準備をしていた

 

レ君が言った

お茶いるだら、いるだら、そう言って

いつもいつも、小さなアルミニウムのやかんにお茶を入れて

みんなに配って歩いていた

信州の冬は本当に寒い

リノリウムの床を裸足はツライ

ここでは

タバコとカツプラーメンと

そして、なんと、スリッパが

貨幣なのだった

彼にはずいぶんと

スリッパを

騙し取られたモンだ

今どうしているだろう

少し知的障害があって

よく保護室に入れられていた

精神病院がいいのか、ここの前のコロニーがいいのかナンテ

よく、看護士や看護婦が、言っていた

彼は、どうなったンだろう

 

ここは、今は、どうか知らないが

あの時は、ここら辺は、本当にナンダか

チガウ雰囲気の一角だった

田んぼとリンゴ畑の真ん中を田舎道が走っていて

その道の着きあたりがとてもガッシリした土手で

その土手の向こうに天竜川が滔々と流れていた

ソコに向かって右手に、

ここら辺ではの単科の精神病院があり

広大な敷地だった、たしか、看護婦宿舎もあった。

左手は、例の全コロのコロニーで、

ここもまた、広大な敷地に、

畑と、知的障害者のみなさんの宿舎が

職員宿舎が何棟も、並んでいた。

国鉄の駅と、病院とをつなぐバスが、午前二本午後二本あるきりで

車でもなければ、移動も困難だった

 

アルプスの山々が、とても美しかったハズなのだが、

一年近くいて

景色の美しかったことが、どうにも、想いだせない。

大体、世の中が、大虐殺の大ボス千代田城の主の下血騒ぎと

死亡で、タイヘンだったと、後で、聞いたが

おれは、まったく、おぼえがない

 

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テレビの話題は

今の友の会のみんなの部屋とまったく一緒だった

野球と相撲だった

時代劇もよく見られていた

ぼくのいた病棟では

将棋や囲碁は、あんまり、やられていないようだった

 

病棟のなかで、千代田城主のそのような話題がアッタと、

まったく記憶していない

記憶から抜け落ちているのか

それとも、本当に、あの中での、会話の中に、ソンナことが無かったのか

本当のトコロ、わからない。

ただ、憶えている、病棟での会話に、千代田城の城主の事など、

一度も登場したことは、ないと、想う、のだ。

世間様は、大騒ぎダツタそうだが。

そう、でも、ただ、イさんが、

実はねワタシがね、ヒロノミヤさんのお嫁さんに内定しているのよ、と、

言っていたのを、想いだす。

 

上の階B2病棟には

日蓮大聖人が三人もいた

よく、ケンカにならないものだと、想ってはいたが

やはり、いろいろと、あるようだった。

ぼく自身は、日蓮大聖人様たちとは、

なじめなかった

ちょっと、コワカッタ、なもので、離れていた。

今想えば、イロイロと、スゴいハナシが聞けたかもしれないと、想う。

 

外勤のヒトたちがうらやましかった

キホン的にはアル中の患者さんたちなのだが、苛められた

各病棟にアル中部屋が必ず一室あり

そこの住人が、病棟を支配していた

喧嘩と云えば、実は、その部屋が一番多いのだった

みんな、その部屋には、できるだけ、近づかないようにしていた

おれたちは、アル中のヤツラと言い

アチラはおれたちのことをアタマのヤツラと、言っていた。

混合がいいとは想うが

アル中は、別の病棟にしてほしい、といのうが、本音である

我々には、ほとんど、面会はなかったのだが

アル中の患者さんたちには、けっこう、面会者があって、

親や奥さんや恋人が、来ていたと、想う。それも、うらやましかった。

外勤作業に行くもんだから、金も持っていた。

製材所と云うことだったが、ひどい低賃金だったハズだが、

それでも、おれたちからみれば、高所得者だった。

看護士の態度が、アル中の患者さんたちと

おれたちとでは、まったく違っていた。医者の態度も。

 

ひとり、シンナー中毒の若者が入ってきた

ヒトなつこく、誰にでも好かれていた

依存症なのだが、彼だけは、アタマの側に、入れられていて、

アル中のオッサン達からも、そう、扱われていた

高校生ダッタと想う

キモチのやさしい青年だった

一人っ子で

親は、土建屋で、地元のそこそこの企業を経営しているようで

お金も持っていた

こんなとこにいたらあかん、とみんなから言われていた

退院したが、またすぐに戻ってきて

また、やっちゃって、と、風呂場で、言っていた

ぜんぜん元気そうだったのだが、

肝臓がやられていて、すぐにまた、内科の方に転院していった

泣きながら死んでいったと、聞かされた

看護婦がそう詰所で、言っていた

 

アル中の青年が一人入ってきて、それが、

アタマのぼくらのところでもなく、

アル中部屋のオッサンたちのところでもなく、

どの部屋にいたかというと

例のコーナーのところの作り付けの長椅子の後ろ側に

小さな部屋があって、そこは診察室という名目で精神医が

インタビューという名前の入院患者さんの診察の場所だった。

本来の使われ方では、アンマリ使われてはいなかった。

で、実際は点滴部屋に使われていた。

そこが急遽、その青年の病室になった。

空きベッドがなかったのか、

それともアル中部屋にも、アタマのぼくたちの部屋にも、

入れない配慮があったのか。

ともかく、あの小さな部屋は、おもしろい使われ方をしてたと想う。

一時、緊急保護室にもなったし、患者側の立て籠もり場所にも、なっていた。

その青年は内観療法が良かったと、アッと云う間に退院していった

我々、アタマのみんなは、ナンノコッチャ、、、、、だったが、

うらやましかった

 

入浴は、週、二回だったか、三回だったか、

男性が先の時と、女性が先の時とが、交互に来るので

マチガッチャって

ところが、それで、ごちゃごちゃになるのに、みんな平然としてた

どういうことかというと、ツマリ、入れ替えの中間帯は、

時々、男女混浴になってた。

誰も驚かず、騒ぎもせず、おれだけが、腰を抜かしてた

恥ずかしかったなぁ、あれは

不思議なことに、看護婦も看護士も、ナンニもしないのだった

それが、よかったかもしれん、

入浴中に看護士や看護婦が入ってきたら

みんな、サッと緊張してたもんな

風呂の中で、みんな緊張するのが、本当に良くワカツタ

曜日で、固定してた時もあるようなハナシをきいたが、

その時でも、コンナだったらしく、

とにもかくにも、それが、フツーのことだった

今は、どうかな、、、、、

 

風呂場に、ウンコが落ちていて

実は、度々あるのだが、

そのたびごとに、服を着て、詰所まで報告するのが

役目ダッタ

服の着替えが一番早かった、ノデ。

つまり、おれが、一番若かった、ということだ。

その時確か29歳。28歳で入院して29歳で退院したんだから。

ともかく、若くて、とにかく、身体が動けば

ヨレヨレのおじいちゃんたちの、介護役になるのだった

それが、自然のなりゆきだった

そして、ウンコがあっても、入浴は、続くのだった

看護婦も、ウンコだけ拾って、ソノママだった

 

脱衣場と物干場が、同じなので、

ツマリふろの脱衣場が、洗濯物を干すところにもなっているんだけれど、

入浴日には、洗濯物を取り込んでおかないと

無くなる、ってこと、ナンだ

だって、風呂入って、上がってきたところに、洗濯物が干してあるんだから

おじいちゃん達、それ、着ていっちゃうよ。

洗濯物干しておくと、無くナッチャウってとこは、

ホント、ソコントコは、自衛隊と、一緒なカンジだったンダ。

他にも、良く似たところがあって、

この雰囲気、両方に行ってないと、分からないと想う。

だから、ムショと精神病院、両方に行ってたヒトがいて、

そのヒトの言う事が、、、、、、、どちらもヒドイ、って。

でも、どちらかといえば、精神病院の方がヒドイ、って。

ボクも言おう

軍隊も精神病院も、できるなら、入らない方がいい、、、、

イイトコじゃないに、決まってる

軍隊も精神病院も、入らない方が、いい、ですよ。

 

ずっと、四肢拘束されてるおばあちゃんがいて、

ずっと、保護室に入れられている青年がいて、

誰がどう見ても、誰がどう考えても、

アレはむごいモノだった。

B1病棟の保護室は、別棟に二室あって、それはそれは、重装備なものだった。

図でもかければいいのだか、壁の一面が、丸っぽ完全鉄格子なものだから、

丸見え、と云うか、動物園というか、窓に鉄格子じゃなくて、

壁が一つなくなっていて、鉄格子になっていて、

それは、なんとも、ビックリすると想う。

ずっと入れられている青年が、頻繁にドアを叩くので

とても、タイヘンだった。

昼もなく夜もなく、叩いてた、叫んでいた。

あの保護室は、詰所から遠すぎるよ

病棟の図でも描ければいいんだが、、、

想いだせるかな、、、、

 

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作業療法棟と云うのが、あって、そこに、作業療法士が二人もいるんだが、

作業療法なんて、ひとつもやってなくて、いつも、ガランとしてた。

設備だけは、じつに立派で、ソコダケ、公民館っていうカンジで、

陶芸の電気釜や、調理施設やスポーツ施設や、

茶室として使えるようにまで、なっていた。

だから、そこの和室が、一人に為れるとても、静かな場所だった。

おれは、そこで、作業療法の名目で、絵を描いたり、

ナニか工作をしていることになっているハズだったのだが、

実際は、ソンナことなど、ほとんどナンニもなくて、一人の時間が楽しめた、

ありがいことだった。

 

ある時、その作業療法棟から、帰ってくると、

病棟の食堂の床に、ナンダカ血らしきものが、、、

みんなも、若干青ざめている、様子がナンダカおかしい、

どうしたんですか、ナニカあったんですか、と聞くと、

なんでもずっと保護室に入れられていた、あの青年が、

看護士に突然、襲い掛かっていって、

その青年も、看護士も、血まみれになって、凄かったんだよ、

と云うハナシだった

こわかっよおぅ、と言って

どうも、その青年の方がワルイんだ、と云うようなことを

言っていた

その青年は、そのまま、ここからはいなくなり、

保護室からのドンドンは、止んだのだった

彼は、ドコヘ行ったのだろう

しばらくは、やられた方の看護士も、休んでいた

 

そうだ、あの時

あの時のことを、書いておこう

あの時

それまでに、もちろん、いろいろと、こうなる状況は

あったのでは、あるのだが、それにしても、、、、、

、、、、、、いきなり、、、、、、

いきなり、本当にいきなり、走ってきて

医者が後ろから、飛び掛かってきて

リノリウムのあの固い冷たい床に、

殴り倒されて

上から馬乗りにされて、首を絞められた

それでも足りずに、今度は引きおこされて、

何発も、顔面に貰った

もう一度、倒れた時は、ほとんど、気を失いかけてた

周りに呆然と、立ちすくんでいた

患者さん達や、看護婦や、作業療法士達が

まったく、身じろぎもせずに、凍り付いたかのように凝視していた

まるで、時間が止まっているかのような

スローモーションのような

不思議な感覚だった

その時

タさんがスッと近づいてきて

耳元でささやいてくれた

医者にはさかろうたらあかん

入院中は絶対に医者にはさかろうたらあかん

あの時、それは、とても、勇気ある行動だったと想う

それからナニカが解けたように、そこにいた全員が一度に動き出して

その精神医は、何人かに囲まれるようにして出て行った、と想う

いや、一人で、白衣をひるがえしながら、立ち去って行ったのか、、、、

ボクの方は、ようやく看護か誰かに助けおこされた、

よく憶えていない

ともかくも、病棟に戻ると、

さすがの病棟婦長が、おれを一瞥して、青くなっていた

後で鏡を見ると、顔と首の回りが、ナントモハヤ、凄いことになっていて

誰が見ても、ナニカあったと、わかるわけだった

普通なら、内科かなんかで、レントゲンを撮ったり、

一応なんか、検査か、した方が良いのだろうが

ともかく、院長が来て、人差し指を眼で追うように言った

モノが二重に見えてないか、確か、ソンナことを聞かれたと、想う。

院長は、すぐに病棟から出て行って

詰所で、ナンカ貼ってもらったような気がするが、よく憶えていない

何日かたって

地元の地方紙が、早速にカンづいて

入院中のボクに取材を依頼してきたから、騒動になった

誰かが、外に、漏らしたんだ

後で考えると、院内の医師達の派閥争いに利用されたようだった

医局長派と副院長派の対立にね

ボクはモチロン、取材を断った

入院しているんだからね

断ったにもかかわらず、新聞記事になってしまい

院内で、医者が、入院患者を暴行、

と云うような、実にベタな見出しの小さな記事だったと想う

ドコカに、記事のコピーが取ってあるはずなのだが・・・

それ以来、まるで、ボクは、病棟の、

いや病院全体のアンタッチャブルになってしまった

 

だって、退院はできないんだから、

こんな事件があったって、

入院し続ける以外にはなかったんだ。

実家にも、京都にも、帰れなかったんだから・・・

とにもかくにも

それ以来、おかしな雰囲気の中、入院生活は続く

それ以来、入院生活が、良くなったのか悪くなったのか

少なくとも、厄介なアル中部屋のおっさん達や、

看護士たちが

ボクを避けるようになったから、身は安全とは、想った

 

看護婦に為りたかったんよ

学校にも受かって、行ってたのに、コンな病気にかかっちゃって

と言いながら

詰所に入り込んで、ナントカ、看護婦の手伝いをしたくて

詰所に入り込んで、追い出されていた

いまから想えば、クスリの副作用の

乳汁分泌に、悩んでいた

シャツの胸のトコロがいつも濡れていて

アレはクスリの副作用だったんだよ、

今なら、教えられるんだが・・・・ナントカナルカモシレナイよ

もう遅いなぁー

うまくいけば

詰所で、脱脂綿を、ハサミで、切らして貰えてた、ね

その娘にしてみれば苦しかったと想う

急にいなくなっちゃって、ドウシタンダイ、、、、

急にいなくなっちゃって、、、、、

 

落ちる落ちる

落ちる、と、ぼくに言う

ぼくが、食事の後、プラスチックのお盆に食器を載せて

配膳窓口に返しに行くとき

お盆の上の牛乳瓶を指さして

彼は、デェイルームの同じ席に座ったママ

必ず、言うのだった

倒れる、倒れる

倒れる、と、ぼくに、言い続ける

いつも、将棋盤を前にしていた。

それが、将棋を本当にさしていたのを見たことがないのだが、

その彼が、いきなり、倒れて、意識不明になり、

ストレッチャーで、運び出されていった

大騒ぎになった

そのまま、彼は、戻っては来なかった

ナンニも知らされないまま

例によって、入院患者の中では

例のどこからともなく、コンなハナシが拡まった

ロボトミーの後遺症で、血液の成分が

無茶苦茶になった、というものだった。

不思議なことに、死んだと云うハナシはでなかった。

入院患者の中で、どこからともなく拡がるハナシは、

割と正確だった、と、そう想う。

だから、彼は、あの時、死にはしなかったのだと、想う。

ただ、二度と、ここに、戻っては来なかった

いつもいつも、お盆の上の牛乳瓶が、

倒れないか、シンパイしているヒトだった

そのころは、スイカ割りをされた患者が

本当にいたのです。

本当のことなんですよ。

誰も、おもてだっては、口にはシナカッタ。

でも、あの時だけは、語られたのです、患者たちの中でね。

彼の前の、あの将棋盤は、いつしか、かたずけられていて

誰も、そう、誰も、、彼の席には、座らなかった

食堂の、エル字型の壁ぎわの角の席だった

 

あるとき、今日、電気ショックがやられたようだ、そう、ハナシが伝わった

いつものように、あのコーナーに、

あの擦り切れたグリーンの長椅子に座って

よもやま話をしていた、あの面々が、

一瞬にして、こわばって、真っ青になっていくのが、わかった。

そしてそれが、あっちの方の廊下にも、こっちの方の廊下にも

そして、デェイルームと云うか、食堂と云うか、テレビのあるとこへも

まるで、まるで、さざ波のように、伝わっていった

それは、恐ろしいものだった

看護婦や看護士たちも、ナンダカ、キンチョウしているように想え

そして、いつもより、とても優しく、感じられた

いつもより、もの言いが、優しいのが、本当に、怖いんデスヨ

本当のことなんですよ。

その日は、ナンダカ、一日、静か、ダッタ

 

ボクの入院体験なんて実際はたいしたことはないんです。

期間も、一年くらいだったんだし、

全開放だったんだし、ね

全開放といっても、まわりになんにもないんで、

どこにも行きようがない、

だから、道を一つ隔てた巨大コロニーの方も

ぼくたちの精神病院も、どういうわけか、

門のところから誰も出ない

どう言うかな、「自主閉鎖」と言うか、「お手盛り開放」とでも言うか、

とにかく朝8時頃から、4時半頃までは、開いているんだけど、

夕方からは、閉まっちゃうし

なにか病院か看護の都合で、いきなり勝手に閉鎖になっちゃうこともあったな。

 

そこで、ボクは何度か門を出て、

田んぼのど真ん中の道を延々と歩いて国道まで行ったことがあるけど、

なんというか、それだけのことで、

また病院まで帰ってきた。総行程10キロはあったんじゃないかと想う。

なにしろ、遠かった、遠い、道のりだった。

今から25年以上前の話だから、変わってはいると想うけど

本当に何にもない、信州の田んぼの中を、てくてくと歩いて行ったんだ

カンカン照り、でさ、信州というのに、ギラギラした太陽だったなぁ

 

それに、そう、県立病院だったから、看護の数も多かったんだ。

それでもコウなんだから。

今は、どうも精神科救急の拠点になって、

ホームページでみると、あの時の建物は、一つもないようだ

外見は、とても、キレイな様子になっている

エラく豪華な、精神科救急に特化したような、病院の姿が、

パソコンの画面にあった。

観察法病棟もあるみたいで、しかも、児童精神科もあるようだった。

あの時、入院していた患者さんたちは、ドコへ行ったんだろう

と、そう想う

 

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楽しいことも、アッタンだ

愉しいことも、なけりゃあ、あの中で暮らしてはいけないよ

そう、暮らして、、、、暮らして、いたんだから

たしか、あれは、お花見だ

どこかの城跡に、お花見に行った

アンナにたくさん、病棟に入院しているのに

いざ、外に、お花見に出かけるというレクに

参加する患者は、少なくて、ごく少人数で行った。

寒くて、寒くて、あんなに、寒いお花見は、後にも先にも、あのレクだけだった

あれより寒い、お花見は、ないと想う、未だに。

寒くて、曇天で、しかも、

桜は、あんまり、咲いていなかった

みんな、一ちょらの服を着て出かけた

ネクタイしめて背広を着ていた、んだから。

出かけるときは、本当に、ちゃんと、背広を着ていたんだ

年に何度か、一度か二度の、レクのために、背広とネクタイが、あるのだった。

だから、出発前は、前の晩から、タイヘンだった

どっかの阿保が、ギイン前にした口演のために、背広着るのとは、

意味が違う。

あれは、本当に、あのおじいちゃんたちの、

サイゴの矜持ダッタのかもしれない。

それにしても、なんで、あんなに寒かったのか

その時、看護士か、誰かが、撮ってくれた写真が、手元に残っている

あのレクに参加した面々だから、少しは、ゲンキだったはずだけれど、

二十五年以上も経った今、誰が、生きているのだろうか

あの血みどろになった、ずっと保護室に入れられていた青年も

看護士も二人とも、写っているのが、不思議な気がする

その写真、コレ読んでる人も、見てみるかい、

でも、写っている人たちの了解とれないしなーー

いい写真だよ

 

退院した時、

たった一年近くのコトだったのだが

それでも、その時には

昭和ではなく、平成になってたし、

ともかく、景色が、違って見えた

 

いつの間にか

ヒトがいなくなる

あの恐怖は、分からないと、想う