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もさんが、 なんと、三十年近くも、府立ら病院に、入院させられていたのである。 家族に、弟さんに、入院させられていたのである。 強制入院である。

ともかく、小柄だが、がっしりとした体躯の、喜怒哀楽の激しい

難聴で、知的障害で、生きるエネルギーに満ち溢れていた

もさんが、

なんと、三十年近くも、府立ら病院に、入院させられていたのである。

家族に、弟さんに、入院させられていたのである。

強制入院である。

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家族による、同意入院である。医療保護入院である。

人生で、一番いい時、30年近くを、精神病院で、過ごさせられたのである。

友の会と、出合うまでは、退院はもちろん、

外泊もさせてはもらえていなかったようなのである。

その退院、アパート退院に至る経過は、

まさしく、前進友の会の第一世代たちの、素晴らしい、活動ダッタと、

そう想う。

主治医は、プシ共闘の御大、お医師だったのである。

リクツや、メダツトコロや、国会の参考人や、講演会や、ナンタラ反対集会やら、学会の理事職を確保することよりも、医師としてヤルベキことがアッタのではないのか、と、そう想う。プシ共闘系の活動家ダッタ精神医達の欠点だと、そう、想う

50歳近くになって、やっと、シャバで暮らせたが、

70歳くらいから、だんだんと、シンドくなり、

結局は、精神病院に、戻っていったのである。

それなら、元々いた、ら病院に、最初は、戻って、行ったのではあるが、

そこで、閉鎖病棟保護室で、四肢拘束の五点張りをされていた。

もさんは、そのら病院から出られたとき

「シャバにきた」

「看護士にきつうにヤキいれられたわ」

と言っていた。

友人面会も、禁止だ、と云う、ことだったから、コレは、アカンと判断して、

それで、い病院に転院することになり、今に至るのである。

プシ共闘の拠点病院だった府立ら病院が精神科救急に特化していく

過程での、悲惨な、転院劇だった。

2005年のコトだった。

だから、もさんとの最後の旅は、アレは、確か、05年6月の阻止共闘の集会で、アノ映画「かけがえの前進」の上映会、だったはずで、

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その時は、ざ君と、もさんと、三人で行って、上映会に参加して、新松に、泊まらせてもらった、と想う。その時は、東京暮らしをしていたくちゃんと、再会し合って、上機嫌だった。

近くのラーメン屋さんに、新松のみなさんと、多勢で行った。

その時の、記念写真に、もさんが、写っている。

この旅が、元気だった、もさんとの、サイゴの旅、

と云うことになるのかもしれない

 

05年の入院から、2010年のSIADHで倒れる間の

ぼくたちは、もさんをずっと入院させ続けていたわけではない。

そう、確か、落ち着いてきたら年に3度か4度は2泊3日から1週間ぐらいの外泊はいろいろと試行錯誤しながら、友の会みんなで話し合いながら、挑戦し続けていた。

最初のうちは、もさん自身がアパートに帰りたいわーと言っていたし、友の会のみんなも、なんとか後数年はシャバで暮らせないだろうか、とみんなが想っていた。とにかく、ありとあらゆる手段を使った。訪問看護も、ヘルパーも入れていった。ふと気が付くと、入院中のい病院だけではなく、近くのいわゆる社会資源なるものをほとんど網羅していたと想う。だから、もさんの外泊に向けての打ち合わせ会議が大変だったのである。い病院のPSW訪問看護、入院中の病棟の看護、ヘルパーの派遣事業所のケアマネ、サビ管、ヘルパー、福祉事務所のケースワーカー、が、とにかく集まって話ししなればならなかった。段取りをする人間も、会議場所の提供も、前進友の会がやったのである。

だから、友の会のみんなの部屋で上記の専門職たちが一堂に会し、友の会のほうも希望者は自由参加だったから、それは、すごい会議だった。

一度や二度ではない、結構何回もやったと想う。

そうやって、もさんの、外泊や退院に備えたのである。

そう、あれは2007年、もさんもまだまだ元気だった。友の会の食事会で晩御飯を食べ、土日は訪問看護が来ることになっていた。その、2泊3日の、もさんの外泊のためのクスリが、あまりにひどすぎた。いろいろいきさつはあるのだが、訪問看護のクルマの窓ガラスをかち割って、そのクスリをつき返してやった。

もちろん、そのあと、警察の取り調べと現場検証を受けることになる。

そうそう、もさんの外泊退院のときの、愉しい想い出も書いておこう。

もさんが、すき焼きが大好きだったので、外泊中にスタッフのてくんが腕によりを掛けたすき焼きをこしらえた。もさんと、えばっちは、大喜びだった。バクバク肉を食べたものである。安い肉をあれほど美味なすき焼きにする、てくんの手並みはすごかった。

ヘルプに入ってくれた、や君のねぎの切り方が、あまりにもひどく、これは、いまだに語り草になっている。みんなの部屋で、何人かでもさんの添い寝をしたのである。

 

そうそう、あのえばっちが発狂した簡保と云う職場にも、もさんと一緒に行ったことがある。確か、カレンダーだか、石鹸だか、を売りに行ったのだと想う。もさんが、一緒に連れて行ってくれというので、一緒に行った。そして、カンポの古いナカマに、モノだけ渡すと、帰ってきたのだが、それでも、末端管理者どもが、大挙して下りてきて、囲まれる中でのコトだった。

みんなの部屋に帰って来て、もさんに、簡保どうやったと聞いた。

えばっちが、発狂したトコなんやで、と、言って。

そのもさんの答えが、ふるっている。というか、真実を言い当てている。

「あそこは、精神病院やったんか?」

大挙して管理課から下りてきた末端管理者連中が、

ヤキを入れに来た看護士の一団に見えたことは明明白白の事のようだった。

 

もさんの、名語録を紹介しておきたい

「しまつせなあかん」

これは、つまり、倹約、節約しなければイカンと云う、ことで、セーカツぶりは、とても、つつましやかなもので、質素で、あった。誰かをヤレ、と云う意味ではない。今どきのケースワーカーたちに、やいやい言われなくても、この世代の、もさんのような、人たちは、こさんたちも含めて、実に、つつましやかな暮らしぶりだった。それなのに、あの福祉事務所のワーカー達といったら、、、、

「出面(でづら)だしといてや」

これは、作業所の出欠表に、出席しました、書いておいてくれ、もしくは、出欠表を確認しといてくれ、と云うことである。日雇い人足を、日雇い仕事を、ヤッタ事のある人なら、お馴染みの文句であろう。時々、チャント言わないと、ワルい親方は、出面を誤魔化すのである。もさんも、誤魔化された口なのであろう。

えばっちのいくつかやったシゴトで、付いた親方たちは、

でづらに関しては、マシな方だった、とそう想うが、念のため、

オレも、もさんと、一緒に言っておこう

「でづら出しといてや」「出面、誤魔化さんとってや」

「でづら、ごまかさんとってや、たのむで」

出面誤魔化すような親方には、当たりませんように、お願いシマッサーー

 

もさんが、また、11月5日に、み病院へ搬送された

い病院に戻って二週間も、経ってはいなかった

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 キーサン革命の鬼 えばっち 江端一起

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