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Ⅱ. 地を這う患者会列伝  大体が、名前からして全く違う雰囲気を醸し出している。愛媛松山の「ごかい」(言わずと知れた「わしらの街じゃあ」「天上天下病者反撃」のキーサン患者会の親分である。キーサン患者会、地を這う患者会の希望の星であった)六花出版 「精神障害者問題資料集成 戦後編第十巻患者会運動」 所収原稿

Ⅱ. 地を這う患者会列伝

 大体が、名前からして全く違う雰囲気を醸し出している。愛媛松山の「ごかい」(言わずと知れた「わしらの街じゃあ」「天上天下病者反撃」のキーサン患者会の親分である。キーサン患者会、地を這う患者会の希望の星であった)

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静岡藤枝の「藤枝友の会」(地元の精神病院内の患者自治会から発展して地域患者会として作業所に変化も拒否し、徹底して会員の会費だけでたまり場を維持し続けている類まれな患者会である)神戸の「ニューカトレア会」(阪神三人衆と言われたカチコミの親分達が言っていた、山本深雪氏が大阪人権センターだの大精連だのと目立ち始める前は、ここにパラシュートして来て元々から居るような顔して、クスリ飲んでるとこなんかいっこも見たことない、と)博多の「福岡わらびの会」(今現在に至っても手書きの会報を発行し続けている凄いトコロである)東京亀戸の「新松橋亭」(しんまつと親しみを込めて呼んでいた。東京の下町で、「天上天下病者反撃」を読んで感動して作ったのだとのことで、クボタクリニック脱藩組の支援者たちもナカナカの人物である)大阪高槻の「灯会」(言わずと知れた精神病患者会の老舗中の老舗、俳句を作り続けている)堺の「ガンバロー会」(全国各地にあった精神病院の患者自治会出身の会である。このころは、浅香山病院、岩倉病院、光愛病院等々の全開放を目指した病院には、もれなく患者自治会があったものである)住吉の「旅立ちグループ」松江の「つぼみ会」「麦の会」山形の「こまくさ会」信州の「プチノマド」「ひなたぼっこの家」広島の「モスク」(南座を惜しむすき者の会の頭文字をとったそうである)名古屋の「雑草会」清瀬の「一寸五分の会」(ここの会報は毎回面白いものだった)岡山の「すばる」鹿児島の「わかち会」土佐の「西風の会」北海道の「すみれ会」(回復者クラブと自称し始めた最初だと想う。道回連も名乗っていたかも。その後セルフヘルプグルーブだのマインドだのと、イロイロな名乗りがうまれたが、その後どうなったのだろうか。但しココは、セーカツの匂いはとてもしていたと想う)東京の「友の会」(患者会の元祖かもしれない)富山の「ルナの会」福井の「らばの会」いや「ろばの会」だったか記憶が定かではない。

 キリスト教系を前面に打ち出した「心の泉会」(各地の教会に集う月一くらいのたまり場をたくさん網羅していたので、考えてみれば、ココこそがある種実質的な全国的連合体だったかもしれない)全国「病」者集団の名古屋分会「ゼロの会」京都分会「ひまわりの会」全精連の県連としてあった「松ぼっくりの会」(ココは本当に患者会としてのセーカツの実質があった)全精連とは独立した立場の「兵精連」(全精連系の活動家が名乗る前に勝手に名乗ってしまおうと云うノリであった。実質はあったのかなかったのか)「大精連」(「病」者集団とも全精連とも独立した第三の制度政策提言路線政治大好き山本深雪氏の牙城と言っていいだろう)などもある。

 

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そして我が京都山科の「前進友の会」(1976年十全会病院を脱走した病者、命からがら退院した患者、アルバイトスタッフだった学生たちで結成した。初期のころは学生部隊の反十全会闘争と多彩なレクに特徴があった。88年からは、患者会が設立母体で運営主体である共同作業所も運営しつつ)である。こうやって、ココに想い付く限りの患者会の名前を並べ得ただけでも、書かせてもろうただけでも、ありがたいことなのである。地を這うように70年代から80年代にかけて、精神病患者同志のレクと食事会とたまり場から澎湃としての沸き起こり活動を続け、全国ドウタラとか少しもかかわりも持たず、90年代少しづつ減っていきそして大方は21世紀には、消えていた。

 

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Ⅲ. 全国「病」者集団的なるものとの対決

 ところが不思議なことに全精連為る団体が93年に、厚生省の役人を発足大会に来賓として迎え、鳴り物入りで出来上がってくるのである。何が不思議かと言えば、各地の特色ある患者会は段々と活動を縮小していっているときに全国の連合体が出来ていったのである。ご丁寧なことには、県連と云うものもできていった。本当に実態があったのだろうか。現在の全精連の現状を考えてみれば、答えはおのずから明らかであろう。もう一つおまけには「病」者集団はこの動きに対して「歴史的な意義がある」として賛成しその宣伝ビデオに赤堀さんまで出演させてしまった。当時、不思議でかなわんかった。だって、全国「精神病」者集団と云う歴史ある全国組織があるのだから、結集したければソコに結集すれば良いことだったから、、、「地を這う」ように各地にあった患者会は、結局はその「病」者集団にも、新手の全精連にも積極的に合同していこうと云う動きには為っていかなかった。では何故にそうはならなかったのか。結論から言えば、このあたりから、「ごかい」「藤枝友の会」「前進友の会」と云う「キーサン患者会」「地を這う患者会」と自称していた我々と「病」者集団との対立が決定的になっていったのである。それは、当事者運動総体の歴史から見れば、ある種不幸なことだったかもしれない。もちろんその責めはえばっち自身もキーサン患者会も負わねばならぬが、また、大野萌子氏も「病」者集団も負わねばならぬだろう。

 ここで重要なのは、本質的には、大野萌子氏と対立していたのであって、山本真理氏と対立していたと云う事ではない事だ。山本氏は大野氏の『代貸』に過ぎなかったのだから、当然であろう。90年代を通して我々が対立していたのは大野萌子氏の路線であった。70年代80年代、偉大な先駆者であり指導者だった大野氏は、誰もが敬い「世話になった」と言うほどの存在であった。それは確かなことだと想う。当事者としての大野氏の存在がどれほどのものだったのか、全国精神「病」者集団がどれほどの存在であったのかは、筆者が書く必要もあるまい。この資料集成のそこかしこにちりばめられているはずである。だが、その「偉大なる」大野萌子氏も、赤堀さんを奪還して以後は決定的に路線を誤った、とそう想う。90年代以降、個人的にも運動体としても誰もが逆らい得ななかった大野氏に面と向かっておかしいと言い始め、問い続けたのが、キーサン患者会だったわけだ。

 はっきりとした対立軸は、ナンだったのだろう。全精連をどう規定するかは、大きかった。キーサン患者会は「アリャ御用団体だ」とそう公言していたところに、「病」者集団は「歴史的意義がある」と、言ってしまった。手帳制度の問題も大きかった。大阪での手帳のヒアリングを「ごかい」がカチコミを掛けて、完全に粉砕してしまったぐらいだった。我々は反対の立場だった。保安処分の『監察札』になってしまうぞ、と言っていた。一方「病」者集団は精神障害者にも手帳をとばかりその名も『赤い手帳』が欲しいと、ニュースに書くありさまだった。大野氏の路線だった。この辺から「制度政策提言路線」に急速にはまり込んでいく。その延長線上に山本真理氏や関口明彦氏らの活動家が、30万を超える入院中の患者を、圧倒的なナニも知らずに呻吟している病者を鉄格子とあの厚い鉄の扉の向こうに『置き去りにしたまま』国会の参考人になったり与党か野党か知らんが政党の検討委員やナンかの公的な機関の審議委員やあまつさえ精神医の学会の理事に為ったりしていった。

それどころか、自分に敵対する者の口を封じるのに刑訴や民訴や第三者機関やらの権力に売り渡すことまで平然として、他の患者を脅しながら自分から手を挙げて国会の参考人になりに行くという桐原尚之氏のような若手を作り出してしまった。大野萌子氏の「病」者集団型制度政策提言政治活動家論客路線の当然の帰結であろう。

 

六花出版 「精神障害者問題資料集成 戦後編第十巻患者会運動」 所収原稿

2017年11月14日

 

精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所

あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起

 

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