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この文章、「民事訴訟という現場 根本俊雄」、、とても素晴らしく今度の裁判の判決をえぐり、全国「精神病」者集団、キリハラ派の嘘を見破っているので、余りに素晴らしいと想い、、、えばっちの責任において、、根本さんの了解を得て、フェイスブックとブログとタンブラーに、、一挙掲載することにしました、是非とも読んでみてください

この文章「民事訴訟という現場 根本俊雄」、、とても素晴らしく今度の裁判の判決をえぐり、全国「精神病」者集団キリハラ派の嘘を見破っているので、余りに素晴らしいと想い、、、えばっちの責任において、、根本さんの了解を得て、フェイスブックとブログとタンブラーに、、一挙掲載することにしました、是非とも読んでみてください

 



 

民事訴訟という現場  根本俊雄」

 

■名乗らないという約束をした事実はなかった、のか?

全国「精神病」者集団(運営委員会派)の2023年3月2日発行のニュースに、山本眞理さんとの訴訟に関する記事がありました。

「2022年12月東京地方裁判所は、全国「精神病者」集団を名乗らないという約束をした事実はないと、山本眞理氏の請求を棄却する判決を出した」(下線根本)。ニュースの中にこのような表現が何カ所かあります。私は判決内容を読んでみて、このような言い切り方に、強い疑問をもちました。(判決文は全国「精神病」者集団(運営委員会派)のHPにアップされています。)

https://jngmdp.net/wp-content/uploads/2023/01/20221223.pdf

 

この訴訟は、2年前の私の投稿『分裂から3年が過ぎて』で書いたできごとから派生した民事訴訟です。

山本眞理さんの訴状の主旨は、次の通りです。

2018年3月30日に取り交わした「確認書」の通り、運営委員会派の関口さん・桐原さん・山田さんと山本はそれぞれ別の団体になり、両者とも全国「精神病」者集団の名称を使用しないことに合意したはずである。合意に反して運営委員会派は名称使用を継続しているのだから、名称不使用の義務違反で、損害賠償をせよという民事訴訟なのです。

確認書を読めばわかりやすい主張です。もっともだと思う人は多いでしょう。(山本眞理さんが編集した「全国「精神病」者集団ニュース最終号」で「確認書」の内容がわかります)

https://acppd.org/jngmdp-backup/news/4925.html

 

■団体の行く末に個人参加でかかわる、という不思議

それに対して、関口さん・桐原さんたちの主張は次のようになります。

3月30日に参加した3人は「病」者集団の運営委員で業務執行権はあるが、当日の参加形式は、運営委員会決定ではなく個人の立場だった。そのような立場であるので、執行責任を伴う名称変更という方針内容に合意したわけではない。「病」者集団の名称変更にむけて個人的に「事務的に遂行する確認」をしただけである。

その後、合意した事務遂行義務をはたすため臨時総会を開催し、議決を求めた。しかし参加者の多くから反対意見が出て、議決は否決されたため、確認書の確認事項の一つ「事項が履行されないとき(の対処)」にそって、3人は総会内容を3月30日のコーディネーター2名に伝えた。したがって名称不使用義務がない3人は、確認書で確認した義務についてはすべて行っていて、山本眞理さんの訴えには妥当性がない、という主張です。

関口さん・桐原さんたちの主張は、通常の話し合いの場面を想起して考えると、理解しがたいものです。仮に運営委員会派の3人が個人参加であることを明示し、他の参加者も知っていたなら、そもそも会議は成立したでしょうか。そして、団体の預金と会員名簿の分配、名称変更問題といった当該団体の最重要事項を、個人参加の人物と話し合い、今後の方向性を検討し、「合意」に至るものでしょうか。その合意とはいったい何でしょう。はなはだ疑問です。それでも、確認書を取り交わさなければならない事態になったら、確認文書はかなり丁寧に、厳密に表現したはずです。

関口さん・桐原さんたちの主張は現実的なものでなく後知恵のように見えてきます。

全国「精神病」者集団の活動と歴史は、精神医療の問い直しが精神病者からの問いかけと重なりながら展開した1970年代以降、とても大きな意味をもちました。その「病」者集団が分裂した2018年3月30日の確認書をめぐり、二つの立場と解釈が存在しています。二つの考え方はどのように生れ、判決はどのように結んだのか、運営委員会派のまとめ方で良いのか、それらが点検されることは、精神障害者の運動と未来に関わる人々にとって重要な一里塚であることは間違いありません。

 

■証拠と法律の世界に通じなかった確認書

3月30日の確認書を読めば、全国「精神病」者集団を、関口さん・桐原さんたち(確認書で甲集団と表現)と山本眞理さんたち(乙集団)とに分ける手立てを決めようとしたのは明らかです。そのような大きな目的がなければ、山本眞理さんが保管していた会員名簿と貯金を分配し、名称も別にしようとはならないでしょう。分かれる手立て作ろうとした、これが確認書の軸です。コーディネーター2名の同席ということから、甲集団と乙集団が対立状態であることが十分推察されます。対立している二つの側がなるべく円満に別々になるため、フィフティ・フィフティの内容ですすめていこうとしています。

「話の流れ」はそうであっても片方が心変わりするかどうかで、「いやそうではなかった、名称は変更しない」となってしまえば、争いが始まります。合意は平らなものから、いびつなものになりました。訴訟となれば、「信頼と連帯」の世界から「証拠と法律の問題」に移行します。市民運動の話から文言と権利関係の話になったのです。そのあげく、甲集団と乙集団という二つの立場と主張が裁判で提示されたのでした。

 

「証拠と法律」の世界になれば、確認書という文書、分裂への手立てが法的にきちんと表現されているか、それとも合意した者たちのメモであり、文書の条件は不十分だったか、そういうことが問われます。そう思っていた、信じていたということは問題になりません。

身近なことにたとえれば、貸与なのか、贈与なのかといったトラブルのようなものです。週刊誌で騒がれた天皇家に関するトラブル事例もありましたが、例えば、貸したつもりの領収書に但し書きがなかったとします。相手は、その金はもらったものであり、領収書はあるが返還義務はないと主張したとします。返済を求める側は、領収書では不十分となり、契約書はなかったか、一部返済された事実はなかったか、振込履歴はどうかなどいろいろ積み上げていかなければならなくなる。そのような事態です。貸与したときのやりとりや脈絡は霧の中に消え、証拠だけが求められるのです。

 

確認書の2項では「甲集団および乙集団はいずれも、2018年5月1日以降、全国「精神病」者集団の名称を自己の集団を称する名称として用いない」となっています。主語が、「甲集団」であり、関口さん・桐原さんとはなっていないから、関口さん・桐原さんたちに名称不使用義務はないというのです。

確認書のここの部分の主語を、コーディネーターの弁護士が「関口さん・桐原さん・山田さん及び甲集団、山本眞理さん及び乙集団は…」と書き込んでいたらよかったのかもしれません。すると、両方の集団それぞれで4月末以前に臨時総会あるいはそれに代わる手段をもち、名称変更を組織決定しなければなりません。仮に、運営委員会派の3人のように、名称変更が否決されれば運営委員を辞任することになるでしょう。団体のもっとも大事なことをあえて組織決定せずに個人という立場で外部と話し合い、方針を選択、議案として提案したのですから、否決されれば提案者は辞任など責任をとることによって、組織としての一貫性を保とうとします。それは「普通」のことです。

ともかく両者の組織決定を経て、両者とも名称が変更されるというステップを踏んで、その次に、預金と会員名簿の配分の手続きに入るようにしていたら、スムースに進んだかもしれません。

しかしプロの弁護士が作成した確認書でもトラブルが生じたのですから、特異な事態だったのでしょう。簡単な手直しで、「順調」になるとはなかなか思えませんね。

 

■裁判所は「病」者集団をどのような組織として見なしたか

もう一点問われたことは、合意した者たちは、責任ある立場の者が署名したのか、あるいはそうでなかったのか、ということです。全国「精神病」者集団、あるいは甲集団・乙集団と、両者は、どのような法的関係にあるのかという点です。「病」者集団には会則がありませんでした。ですから「運営委員」にしても、山本眞理さんが自称していた「窓口係」にしても、内部的な慣習であり、客観的には自称の域にあります。

 

そのようななかで、判決は、合意したことをどれだけ負う責任が合意した者にあるのかについて、どのような判断をしたのでしょう。判決文のかなめは次のところです。カッコは私の補足や省略部分です。赤字は関口さん・桐原さんたちが合意したことと義務について、青字は甲集団と関口さん・桐原さんたち運営委員の関係について、それぞれ垣間見える裁判所の「判断」部分です。

 

原告(山本眞理さん)は、(「甲集団及び乙集団はいずれも、2018年5月1日以降、全国精「神病者」集団の名称を自己の集団を称する名称として使用しない」という確認書2項)により、被告ら(関口さん・桐原さん・山田さん)は(「病者」集団の)名称不使用義務を負っていると主張する。

しかしながら、被告ら(関口さん・桐原さんたち)は確認書の合意主体であるものの、確認書の2項及び5項の主語は「甲集団および乙集団」とされ、(確認内容が履行されない場合の対応策が)定められている。

そうすると、(確認書2項の定めは)甲集団及及び乙集団の行動について定めることを通じて、(合意主体の)努力義務を定めたものと解するのが相当であり、被告ら(関口さん・桐原さん)が甲集団を名称使用させないことを義務づけたということはできない。

 

赤の部分に着目して読むと、関口さん・桐原さんたちは、「名称変更するための事務遂行義務」よりやや広い「甲集団が名称変更するよう、事務に限定することなく、努力していく義務」があると判断しています。ただ努力義務ですから、その努力がたいへん足りないとしても、法的に問うことは難しいでしょう。

そこで、青字の部分ですが、甲集団と運営委員の関口さん・桐原さんたちとの関係において、関口さん・桐原さんたちはもともと努力義務以上の権限は付与されていないと述べていると読めます。理由は明示されていませんが、「会則や代表が定められた団体ではない『集団』である以上、集団の意思は、構成員の総意で決定するしかなく、甲集団と運営委員との間には代表する権限も、業務執行権も存在していない」という「判断」(権利なき社団についての最高裁判例)が下敷きになっていると思われます。

ということであれば、運営委員会の判決文の解釈

 

2022年12月東京地方裁判所は、全国「精神病者」集団を名乗らないという約束をした事実はないと、山本眞理氏の請求を棄却する判決を出した

 

ではなく、精確に言えば

 

2022年12月東京地方裁判所は、全国「精神病者」集団を名乗らないようになるよう、関口さん・桐原さんたち3人は努力することを約束した事実があるが、全国「精神病者」集団には会則も代表も、運営委員会の業務執行権もなく、したがって、運営委員には名称不使用義務がないので、山本眞理氏の請求には理由がなく、棄却した。

 

ということになります。

3月30日の合意が覆ったとき、言った、言わないという争いになりました。信頼や連帯にもとづいた市民運動とかけ離れた内容の文書のやりとり。そのような実態に対応できなかった確認書の稚拙さ。

裁判所は、あなた方の組織は、合意した内容を遂行できるものではありませんし、まして遂行できなかったことを賠償する責任もないのですと言っていると思うのですが、それは法的形式からの結論だけでなく、実態を振り返っても受け入れざるをえないのではないでしょうか。山本眞理さんの棄却決定を受けて、ある種の正義を唱えるなら、それは関口さん・桐原さんたちの組織や活動のあり方への問いかけとなって反響するのです。

 

■名称不使用の合意は、「勘違いだった」のか?

2023年3月2日発行のニュースの中に、2023年12月24日付の関口さん・桐原さん・山田さん3人連名で「山本眞理さん宛の手紙形式」の“宣言”が載っています。内容は以下の通りです。

 

「私たちは…別々の集団として活動する道を選びました」しかし「名称使用しないという約束をしたはずなのに破られた」という山本眞理さんの主張は「心外」でした。「ただ東京地方裁判所は、確認書において名称を使用しないことを約束した事実はないと判断したので、この際、『山本さんの勘違いだった』『勘違いは誰にでもある』と思って水に流すことにしました」。

 

2018年3月30日の話し合いに参加した関口さん・桐原さんたちは、名称不使用の合意に、何ら関係しなかったかのような書きぶりですが、この表現はいままで述べてきた内容からもう一歩不誠実な方向へと踏み出しています。

「名称使用しないという約束をしなかった(至らなかった)」のは集合名詞としての“全国「精神病」者集団”です。

固有名詞としての関口さん・桐原さんたちは、全国「精神病」者集団が「名称を変更するように努力する義務」(判決)があったし、関口さん・桐原さんたち自身「事務遂行する」つもりでいたのですから、山本眞理さんの主張に対し「心外」とまで思うのは、集合名詞としての“全国「精神病」者集団か、関口さん・桐原さんたち以外の構成員であるはずです。

「解釈の違い」がおきたにせよ、顔と顔を合わせてその日に合意文書を作った山本眞理さん、関口さん・桐原さんたちです。関口さん・桐原さんたちは、山本眞理さんの言動が心外であったと不満を述べる前に、臨時総会で名称変更を実現できなかった至らなさを山本眞理さんに詫びなければならないと私は思います。集合名詞としての主語と固有名詞としての自分たちを、ある時は切り分けて、またある時は入れ替えるようにして使用するのはあまりに不誠実な態度であると思います。

 

今回の件で、運営委員会派の答弁書を読んで、全国「精神病」者集団が設立した1974年、会則と代表を設けないことを決めていたことを知りました。権力を否定し、少数者からの反逆のなかに真理を見出そうとしていた時代背景が感じられます。対面すること、その場で対峙する関係、現場から生まれるもの…を求めていたから、固定した会則はもたず、権力的になる可能性をもつ代表制を否定したのでしょうか。

2018年3月30日の現場、対面した人々はそこで何をしようとしたのか。何が生まれ出たのか。それを問う反響音は2023年に止むのか。さざ波のように過去からも響いてくるのか。いましばらく見ていきたいと思うのです。