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いよいよ、明日11月22日水曜日1330時より 国鉄水道橋駅西口より徒歩五分 たんぽぽ舎さんにて 六度目の【交流広場】です ありがたいです、、愉しみです、、お会いしましょう、、愉しみです、、宜しくよろしくお願いいたします

いよいよ、明日11月22日水曜日1330時より

国鉄水道橋駅西口より徒歩五分 たんぽぽ舎さんにて

六度目の【交流広場】です

ありがたいです、、愉しみです、、お会いしましょう、、愉しみです、、宜しくよろしくおねがいいたします

やぁやぁ、みなさん、嬉しいんです、とても、嬉しいんです【作業所に患者自治会を目指してみませんか】と、呼び掛け始めて、五年が経ち六年目に入ろうとしています、ありがたいことです、【交流の輪】は確実に拡まってきました、嬉しいです、去年十月のすみだ産業会館での交流広場、今年五月松本での交流広場、嬉しかったなぁぁぁ、、愉しかったです。

 さて、また、東京に戻って、この十一月に集まってみませんか、遠くに行けないなかまも多いと想うんです、みんな、交通費にはクルしんでるもんねー、じゃあー東京で、また、集まってみましょうよ、四度目まで、、本当に悠遊舎さんにはお世話に為りました、今度もよろしくお願いいたします、やはり、今度も、シンポジストも講師も居なくて、集まった全員で、自己紹介しましょう、名前だけでもいいのです、短い自己紹介でも、いいのです、、長めの方は長めで、とにかく全員で自己紹介していきましょう。集まりましょう。もちろん、懇親会もやりましょうね。

 

2023年10月24日火曜日1600時より 東京地裁103号法廷にて 前進友の会として一名は必ず参加します 是非とも、傍聴と交流に、参加したいです よろしくおねがいいたします  

2023年10月24日火曜日1600時より

東京地裁103号法廷にて

前進友の会として一名は必ず参加します

是非とも、傍聴と交流に、参加したいです

よろしくおねがいいたします

10月1日生存権デモ、13:30、京都市役所前集合 えばっち、絶対に参加します。一緒に叫びましよう!!!!!!!!!!!!!!!

10月1日生存権デモ、13:30、京都市役所前集合

えばっち、絶対に参加します。

このデモだけは、、毎年必ず参加させていただきました。

ありがとうございます。

何時ものように小型拡声器と手作りの前進友の会の旗持っていきます。

一緒に叫びましょうね

宜しくよろしくお願いいたします

#生活保護 #生存権 #デモ #精神病 #キーサン

10月1日生存権デモ、13:30、京都市役所前集合 えばっち、絶対に参加します。一緒に叫びましよう!!!!!!!!!!!!!!!

10月1日生存権デモ、13:30、京都市役所前集合

えばっち、絶対に参加します。

このデモだけは、、毎年必ず参加させていただきました。

ありがとうございます。

何時ものように小型拡声器と手作りの前進友の会の旗持っていきます。

一緒に叫びましょうね

宜しくよろしくお願いいたします

#生活保護 #生存権 #デモ #精神病 #キーサン

キーサンセーカツ列伝 第一章 もさん列伝  精神病院でもシャバでも突き抜けた生き抜くチカラ

キーサンセーカツ列伝 第一章 もさん列伝

 精神病院でもシャバでも突き抜けた生き抜くチカラ

 

もさんは、80歳を超えていただろうか、、、

ぼくと、もさんの付き合いは長い。

もさんは、怒りん坊である。いつも、気に入らないと、

怒鳴りだす。

外で、道を歩いていて、

うるさかったら、カラスに喧嘩を売り、

そして、トラックやバスにも喧嘩を売る。

カラスにケンカを売っている姿は、スゴいものだった。

機能性難聴との診断で、障害者手帳も、持っていたが、

本当に、難聴だったのだろうか、知的障害も、あると、されて、いた。

肉が大好きで、すき焼きが大好きで、ぜんざいが大好きで、

川魚が大嫌いだった。

食事会がない時は、いつも近くの千成で、食べていた。

千成の、すき焼き定食が贅沢だった。

その千成も、店じまいをした。

今、もさんが、シャバで暮らしていたら、如何しただろう。

生きることに、貪欲で、よく、怒り、よく笑い、よく食べた、

そして、好きななかまには、

徹底して、人懐こく、接するのだった。

くちゃんが、大のお気に入りで、「くちゃんは、かわいいなぁー」と云いながら、ほっぺをナデナデシュリシュリしていた。

好悪の感情が、ハッキリ過ぎるくらいにハッキリとしていて、

いつも、ニクマンの中心にいるのだが、

案外、誰からも、本気では、憎まれ、は、しないのだった。



何人かで、自主的に海津温泉と云うところに二回か、三回、か、行ったことが、あるのだが、そこは、よく考えてみたら、木曽三川の交わる輪中地帯で、川魚料理が有名だった。アユや、マスや、ナマズ料理まであった。怒り出すかと想ったら、温泉に連れてきてもらった、と云う、ことで、大喜びしていて、嫌いな川魚には、一切手を付けないと云うことだけだった。

怒り出すかナと想ったんだが…。

たしか、海津温泉旅行の一回目の時か、えばっちの運転で、うちゃん、ふさん、そして、もさんとで行った。なまずのかば焼きが名物で、ぼくたちは喜んで食べたのだが、もさんは、「嫌いや」と言ったきり、手をつけなかった。だが、旅行自体は、とても喜んでくれて、途中で寄った養老の滝での記念写真が残っている。温泉の前で踊っている、もさんとえばっちの写真、それにうちゃんがふさんに四之字固めをかけている写真が最高である。

確か、二回目の時は、アルバイトのに君、うちゃん、うクリニックのたさん、そしてい病院に入院中の、なさんだった。なさんの退院に向けての一環ダッタところがあって、もさんも、さかんに、「連れて行ってぇなぁーつれってってぇなぁー」、と言っていたのだが、普通車の定員五人だったから、ムリだったのである。

それで、三回目だったかの海津温泉への旅は車2台で行った。えばっちの車と、そのときアルバイトスタッフだった、に君の車とで、2台である。総勢8人で行ったのか。会計はアルバイトスタッフのい君がしてくれて、い君の友人が来てくれたおかげで、ちさんと、一緒に行くことができた。入院中のなさんも、あっさり病院側が外泊を許可してくれて、今だったら家族以外はダメだと言うだろうが、このときはあっさりしたものだった。

やすらぎの里でもなく、前進友の会でもなく、

アルバイトスタッフの若者2人とえばっちの勝手にやった、

冒険旅行だった。

もちろん、もさんは最初から行く行くと言っていた、

一番の言いだしっぺ、と云うか、行きだがりっぺ、なの、だった。

赤茶色の硫黄臭のする塩味のすばらしい湯だった。

地元の人たちが、廊下に、毛布を敷いて、一日中、温泉に入っていた。

ぼくたち、泊まり客は、その間を、よそ者ですが、一緒に入れてください、と云う

カンジで、入りに行くのである。

その雰囲気が、ヨカッタ。実に、リラックスなのであった。

もさんも、なちゃんも、こさんも、じちゃんも、リラックスしていた。

このときの記念写真はお宝ものである。



もちろん、もさんは、友の会の夏レクには、

最初の参加以来、全てに参加しているのである。

どのような、場合でも、どのような、場所でも、

晩御飯、朝御飯、いつも、きっちり、食べていた。

旅行が大好きで、列車が大好きで、ドライブが大好きで、

えばっちに、七人乗りの車を買え、と言うのだった。

何処かに行く、となれば、必ず、一緒に行くとなり、

何週間も前から、荷物のシンパイをはじめるのだった。

想えば、90年代、東京の集会に行くとき、いつも一緒に行っていた。

東京の集会に参加した回数は、もさんと一緒が一番多かったと想う。

だから、東京のいろんな団体が、前進友の会のもさんを、良く知っている。

確か、新松にも、街にも、八王子ホットにも、もさんと、泊まっている。

どんな集会や学習会でも、ニコニコして、座っていた。

ハッキリ言って、中身には一切興味はなかったと想うが、どこかに、お出かけすることが、大好き、ダツタのである。

みんなの部屋の中で、東京行きのハナシが出ると、ワシも行くと、必ず言う。

新幹線も大好きだった。若い時の仕事が、機関車の火夫、つまり、機関車の缶の中に石炭をほうり込む、重労働だったから、苦労も多かっただろうけれど、

とにかく鉄道に乗ってどこかに行くと云うことが、大好きだった。

えばっちのクルマにも、たくさん乗って、よく遊びに行った。

どれだけ、行ったか、ワカラナイ。

車でナニか用事で、行くとなると、かならず、

「乗せて行ってや」「連れて行ってや」と言いつつ、支度を始めるのだった。

 

2000年きっかりに、街がやった、チャンプラリズムへも、一緒に行きました。

上野でした。上野駅から、水上音楽堂まで、歩いていく途中で、

確か渥美清さんの手形が、あったのです。もさんが、手を当ててみました。

それが、ピッタリなんですよ、オドロキマシタ。

あれは、いい想い出だなぁぁーー

そうそう、2002年3月24日の、あの、観察法反対の集会と、デモにも、参加しました。あの時は、もさん、くちゃん、ざ君、と、友の会は、何人で参加したのか、そう、確か、集会でも、発言したのでした。なかなか、凄い発言で

「も◯し◯◯じと、言います。ら病院に何十年も入院していました、今はやすらぎの里におります」と、反保安処分集会で、ヤツタのだった。この発言の凄みが、あの集会で、どのくらい伝わったのだろうか、、、、、その後は、結構激しいデモでしたが、終わった後、もさんは、ニコニコして、解散場所の公園で、踊っていました。例の「かけがえの前進」を撮っていたころだから、あの解散場所の公園での雰囲気、映画になっていたら、ヨカッタ、と、想う。あの頃のもさんが、一番元気でニコニコしている、姿、だったと、想う。



自分一人でも、よく出かけた。

一度なぞ、新幹線で、博多まで行って、すぐ帰ってくる、と云うこともあった

みんな、ビックリ、した。

亀岡にある、お墓には、始終行っていた。

アレほど、頻繁にお墓参りに、行く人は、居ない、と、想う

みんなの部屋に来たときには、もう「お墓行ってきた」と言うのである。

いつだったったか

もさんに、こう言ったことがアル

「もさん、ソンなに、お墓行くんなら、ジブンも、いずれはソコヘ入るんか」と、

聞いたのである。

もさんの答え、たった一言、こうであった

「アホ抜かせ」

ジブンが死ぬことは、まったく、想定していないようであった。



綺麗なかわいいお姉ちゃんが大好きで、

だから、看護婦さんやヘルパーさんが

若い、かわいいお姉ちゃんだったら、それだけで、もう

ニコニコなのである。

同じなかまのミスターMや、

こさんを嫌いぬき、ミスターとの間にMMニクマンと云う、言葉を生み出した。

こさんが、ある時、やすらぎの里から出るとき、靴がないと、大騒ぎになった。

階段の下に、靴が放ってあった。もさんがやったのであった。

次からは、こさんの靴を、どこかに隠すようになった。

そのたびごとに、こさんの靴さがし、である。

なので、とうとう、こさんの靴を別保管しておく、と云う仕儀になった。

それでも、こさんも、もさんも、友の会のみんなの部屋に居るのだった。



宇治の方にある、こ、と云う、重度心身障害者通所援護事業、と云うコトだったのだが、六年ほどアルバイトをさせてもらった事がある。そこの面接に、今からすると、ムチャクチャだが、一緒に連れて行ってや、と云う、もさんと一緒に行った。そこで、二人で、ストレッチなんかして、もさんは、すぐに、ソコが、気に入った様子だった。それが良かったのか、すぐ採用された。あのアルバイトは、もさんのおかげで、なれたようなものだ。あとで、親方のし施設長が、お主任が、そう言っていた。

もさん、ありがとうな。おかげで、アルバイト先が、見つかって良かったよ。

 

ともかく、小柄だが、がっしりとした体躯の、喜怒哀楽の激しい

難聴で、知的障害で、生きるエネルギーに満ち溢れていた

もさんが、

なんと、三十年近くも、府立ら病院に、入院させられていたのである。

家族に、弟さんに、入院させられていたのである。

強制入院である。

家族による、同意入院である。医療保護入院である。

人生で、一番いい時、30年近くを、精神病院で、過ごさせられたのである。

友の会と、出合うまでは、退院はもちろん、

外泊もさせてはもらえていなかったようなのである。

その退院、アパート退院に至る経過は、

まさしく、前進友の会の第一世代たちの、素晴らしい、活動ダッタと、

そう想う。

主治医は、プシ共闘の御大、お医師だったのである。

リクツや、メダツトコロや、国会の参考人や、講演会や、ナンタラ反対集会やら、学会の理事職を確保することよりも、医師としてヤルベキことがアッタのではないのか、と、そう想う。プシ共闘系の活動家ダッタ精神医達の欠点だと、そう、想う

50歳近くになって、やっと、シャバで暮らせたが、

70歳くらいから、だんだんと、シンドくなり、

結局は、精神病院に、戻っていったのである。

それなら、元々いた、ら病院に、最初は、戻って、行ったのではあるが、

そこで、閉鎖病棟保護室で、四肢拘束の五点張りをされていた。

もさんは、その府立ら病院から出られたとき

「シャバにきた」

「看護士にきつうにヤキいれられたわ」

と言っていた。

友人面会も、禁止だ、と云う、ことだったから、コレは、アカンと判断して、

それで、い病院に転院することになり、今に至るのである。

プシ共闘の拠点病院だった府立ら病院が精神科救急に特化していく

過程での、悲惨な、転院劇だった。

2005年のコトだった。

だから、もさんとの最後の旅は、アレは、確か、05年6月の阻止共闘の集会で、アノ映画「かけがえの前進」の上映会、だったはずで、

その時は、ざ君と、もさんと、三人で行って、上映会に参加して、新松に、泊まらせてもらった、と想う。その時は、東京暮らしをしていたくちゃんと、再会し合って、上機嫌だった。

近くのラーメン屋さんに、新松のみなさんと、多勢で行った。

その時の、記念写真に、もさんが、写っている。

この旅が、元気だった、もさんとの、サイゴの旅、

と云うことになるのかもしれない

 

05年の入院から、2010年のSIADHで倒れる間の

ぼくたちは、もさんをずっと入院させ続けていたわけではない。

そう、確か、落ち着いてきたら年に3度か4度は2泊3日から1週間ぐらいの外泊はいろいろと試行錯誤しながら、友の会みんなで話し合いながら、挑戦し続けていた。

最初のうちは、もさん自身がアパートに帰りたいわーと言っていたし、友の会のみんなも、なんとか後数年はシャバで暮らせないだろうか、とみんなが想っていた。とにかく、ありとあらゆる手段を使った。訪問看護も、ヘルパーも入れていった。ふと気が付くと、入院中のい病院だけではなく、近くのいわゆる社会資源なるものをほとんど網羅していたと想う。だから、もさんの外泊に向けての打ち合わせ会議が大変だったのである。い病院のPSW訪問看護、入院中の病棟の看護、ヘルパーの派遣事業所のケアマネ、サビ管、ヘルパー、福祉事務所のケースワーカー、が、とにかく集まって話ししなればならなかった。段取りをする人間も、会議場所の提供も、前進友の会がやったのである。

だから、友の会のみんなの部屋で上記の専門職たちが一堂に会し、友の会のほうも希望者は自由参加だったから、それは、すごい会議だった。

一度や二度ではない、結構何回もやったと想う。

そうやって、もさんの、外泊や退院に備えたのである。

そう、あれは2007年、もさんもまだまだ元気だった。友の会の食事会で晩御飯を食べ、土日は訪問看護が来ることになっていた。その、2泊3日の、もさんの外泊のためのクスリが、あまりにひどすぎた。いろいろいきさつはあるのだが、訪問看護のクルマの窓ガラスをかち割って、そのクスリをつき返してやった。

もちろん、そのあと、警察の取り調べと現場検証を受けることになる。

そうそう、もさんの外泊退院のときの、愉しい想い出も書いておこう。

もさんが、すき焼きが大好きだったので、外泊中にスタッフのて君が腕によりを掛けたすき焼きをこしらえた。もさんと、えばっちは、大喜びだった。バクバク肉を食べたものである。安い肉をあれほど美味なすき焼きにする、て君の手並みはすごかった。

ヘルプに入ってくれた、や君のねぎの切り方が、あまりにもひどく、これは、いまだに語り草になっている。みんなの部屋で、何人かでもさんの添い寝をしたのである。

 

そうそう、あのえばっちが発狂した簡保と云う職場にも、もさんと一緒に行ったことがある。確か、カレンダーだか、石鹸だか、を売りに行ったのだと想う。もさんが、一緒に連れて行ってくれと云うので、一緒に行った。そして、カンポの古いナカマに、モノだけ渡すと、帰ってきたのだが、それでも、末端管理者どもが、大挙して下りてきて、囲まれる中でのコトだった。

みんなの部屋に帰って来て、もさんに、簡保どうやったと聞いた。

えばっちが、発狂したトコなんやで、と、言って。

そのもさんの答えが、ふるっている。と云うか、真実を言い当てている。

「あそこは、精神病院やったんか?」

大挙して管理課から下りてきた末端管理者連中が、

ヤキを入れに来た看護士の一団に見えたことは明明白白の事のようだった。



もさんの、名語録を紹介しておきたい

「しまつせなあかん」

これは、つまり、倹約、節約しなければイカンと云う、ことで、セーカツぶりは、とても、つつましやかなもので、質素で、あった。誰かをヤレ、と云う意味ではない。今どきのケースワーカーたちに、やいやい言われなくても、この世代の、もさんのような、人たちは、ちさんたちも含めて、実に、つつましやかな暮らしぶりだった。それなのに、あの福祉事務所のワーカー達といったら、、、、

「出面(でづら)だしといてや」

これは、作業所の出欠表に、出席しました、書いておいてくれ、もしくは、出欠表を確認しといてくれ、と云うことである。日雇い人足を、日雇い仕事を、ヤッタ事のある人なら、お馴染みの文句であろう。時々、チャント言わないと、ワルい親方は、出面を誤魔化すのである。もさんも、誤魔化された口なのであろう。

えばっちのいくつかやったシゴトで、付いた親方たちは、

でづらに関しては、マシな方だった、とそう想うが、念のため、

オレも、もさんと、一緒に言っておこう

「でづら出しといてや」「出面、誤魔化さんとってや」

「でづら、ごまかさんとってや、たのむで」

出面誤魔化すような親方には、当たりませんように、お願いシマッサーー

 

この文章、「民事訴訟という現場 根本俊雄」、、とても素晴らしく今度の裁判の判決をえぐり、全国「精神病」者集団、キリハラ派の嘘を見破っているので、余りに素晴らしいと想い、、、えばっちの責任において、、根本さんの了解を得て、フェイスブックとブログとタンブラーに、、一挙掲載することにしました、是非とも読んでみてください

この文章「民事訴訟という現場 根本俊雄」、、とても素晴らしく今度の裁判の判決をえぐり、全国「精神病」者集団キリハラ派の嘘を見破っているので、余りに素晴らしいと想い、、、えばっちの責任において、、根本さんの了解を得て、フェイスブックとブログとタンブラーに、、一挙掲載することにしました、是非とも読んでみてください

 



 

民事訴訟という現場  根本俊雄」

 

■名乗らないという約束をした事実はなかった、のか?

全国「精神病」者集団(運営委員会派)の2023年3月2日発行のニュースに、山本眞理さんとの訴訟に関する記事がありました。

「2022年12月東京地方裁判所は、全国「精神病者」集団を名乗らないという約束をした事実はないと、山本眞理氏の請求を棄却する判決を出した」(下線根本)。ニュースの中にこのような表現が何カ所かあります。私は判決内容を読んでみて、このような言い切り方に、強い疑問をもちました。(判決文は全国「精神病」者集団(運営委員会派)のHPにアップされています。)

https://jngmdp.net/wp-content/uploads/2023/01/20221223.pdf

 

この訴訟は、2年前の私の投稿『分裂から3年が過ぎて』で書いたできごとから派生した民事訴訟です。

山本眞理さんの訴状の主旨は、次の通りです。

2018年3月30日に取り交わした「確認書」の通り、運営委員会派の関口さん・桐原さん・山田さんと山本はそれぞれ別の団体になり、両者とも全国「精神病」者集団の名称を使用しないことに合意したはずである。合意に反して運営委員会派は名称使用を継続しているのだから、名称不使用の義務違反で、損害賠償をせよという民事訴訟なのです。

確認書を読めばわかりやすい主張です。もっともだと思う人は多いでしょう。(山本眞理さんが編集した「全国「精神病」者集団ニュース最終号」で「確認書」の内容がわかります)

https://acppd.org/jngmdp-backup/news/4925.html

 

■団体の行く末に個人参加でかかわる、という不思議

それに対して、関口さん・桐原さんたちの主張は次のようになります。

3月30日に参加した3人は「病」者集団の運営委員で業務執行権はあるが、当日の参加形式は、運営委員会決定ではなく個人の立場だった。そのような立場であるので、執行責任を伴う名称変更という方針内容に合意したわけではない。「病」者集団の名称変更にむけて個人的に「事務的に遂行する確認」をしただけである。

その後、合意した事務遂行義務をはたすため臨時総会を開催し、議決を求めた。しかし参加者の多くから反対意見が出て、議決は否決されたため、確認書の確認事項の一つ「事項が履行されないとき(の対処)」にそって、3人は総会内容を3月30日のコーディネーター2名に伝えた。したがって名称不使用義務がない3人は、確認書で確認した義務についてはすべて行っていて、山本眞理さんの訴えには妥当性がない、という主張です。

関口さん・桐原さんたちの主張は、通常の話し合いの場面を想起して考えると、理解しがたいものです。仮に運営委員会派の3人が個人参加であることを明示し、他の参加者も知っていたなら、そもそも会議は成立したでしょうか。そして、団体の預金と会員名簿の分配、名称変更問題といった当該団体の最重要事項を、個人参加の人物と話し合い、今後の方向性を検討し、「合意」に至るものでしょうか。その合意とはいったい何でしょう。はなはだ疑問です。それでも、確認書を取り交わさなければならない事態になったら、確認文書はかなり丁寧に、厳密に表現したはずです。

関口さん・桐原さんたちの主張は現実的なものでなく後知恵のように見えてきます。

全国「精神病」者集団の活動と歴史は、精神医療の問い直しが精神病者からの問いかけと重なりながら展開した1970年代以降、とても大きな意味をもちました。その「病」者集団が分裂した2018年3月30日の確認書をめぐり、二つの立場と解釈が存在しています。二つの考え方はどのように生れ、判決はどのように結んだのか、運営委員会派のまとめ方で良いのか、それらが点検されることは、精神障害者の運動と未来に関わる人々にとって重要な一里塚であることは間違いありません。

 

■証拠と法律の世界に通じなかった確認書

3月30日の確認書を読めば、全国「精神病」者集団を、関口さん・桐原さんたち(確認書で甲集団と表現)と山本眞理さんたち(乙集団)とに分ける手立てを決めようとしたのは明らかです。そのような大きな目的がなければ、山本眞理さんが保管していた会員名簿と貯金を分配し、名称も別にしようとはならないでしょう。分かれる手立て作ろうとした、これが確認書の軸です。コーディネーター2名の同席ということから、甲集団と乙集団が対立状態であることが十分推察されます。対立している二つの側がなるべく円満に別々になるため、フィフティ・フィフティの内容ですすめていこうとしています。

「話の流れ」はそうであっても片方が心変わりするかどうかで、「いやそうではなかった、名称は変更しない」となってしまえば、争いが始まります。合意は平らなものから、いびつなものになりました。訴訟となれば、「信頼と連帯」の世界から「証拠と法律の問題」に移行します。市民運動の話から文言と権利関係の話になったのです。そのあげく、甲集団と乙集団という二つの立場と主張が裁判で提示されたのでした。

 

「証拠と法律」の世界になれば、確認書という文書、分裂への手立てが法的にきちんと表現されているか、それとも合意した者たちのメモであり、文書の条件は不十分だったか、そういうことが問われます。そう思っていた、信じていたということは問題になりません。

身近なことにたとえれば、貸与なのか、贈与なのかといったトラブルのようなものです。週刊誌で騒がれた天皇家に関するトラブル事例もありましたが、例えば、貸したつもりの領収書に但し書きがなかったとします。相手は、その金はもらったものであり、領収書はあるが返還義務はないと主張したとします。返済を求める側は、領収書では不十分となり、契約書はなかったか、一部返済された事実はなかったか、振込履歴はどうかなどいろいろ積み上げていかなければならなくなる。そのような事態です。貸与したときのやりとりや脈絡は霧の中に消え、証拠だけが求められるのです。

 

確認書の2項では「甲集団および乙集団はいずれも、2018年5月1日以降、全国「精神病」者集団の名称を自己の集団を称する名称として用いない」となっています。主語が、「甲集団」であり、関口さん・桐原さんとはなっていないから、関口さん・桐原さんたちに名称不使用義務はないというのです。

確認書のここの部分の主語を、コーディネーターの弁護士が「関口さん・桐原さん・山田さん及び甲集団、山本眞理さん及び乙集団は…」と書き込んでいたらよかったのかもしれません。すると、両方の集団それぞれで4月末以前に臨時総会あるいはそれに代わる手段をもち、名称変更を組織決定しなければなりません。仮に、運営委員会派の3人のように、名称変更が否決されれば運営委員を辞任することになるでしょう。団体のもっとも大事なことをあえて組織決定せずに個人という立場で外部と話し合い、方針を選択、議案として提案したのですから、否決されれば提案者は辞任など責任をとることによって、組織としての一貫性を保とうとします。それは「普通」のことです。

ともかく両者の組織決定を経て、両者とも名称が変更されるというステップを踏んで、その次に、預金と会員名簿の配分の手続きに入るようにしていたら、スムースに進んだかもしれません。

しかしプロの弁護士が作成した確認書でもトラブルが生じたのですから、特異な事態だったのでしょう。簡単な手直しで、「順調」になるとはなかなか思えませんね。

 

■裁判所は「病」者集団をどのような組織として見なしたか

もう一点問われたことは、合意した者たちは、責任ある立場の者が署名したのか、あるいはそうでなかったのか、ということです。全国「精神病」者集団、あるいは甲集団・乙集団と、両者は、どのような法的関係にあるのかという点です。「病」者集団には会則がありませんでした。ですから「運営委員」にしても、山本眞理さんが自称していた「窓口係」にしても、内部的な慣習であり、客観的には自称の域にあります。

 

そのようななかで、判決は、合意したことをどれだけ負う責任が合意した者にあるのかについて、どのような判断をしたのでしょう。判決文のかなめは次のところです。カッコは私の補足や省略部分です。赤字は関口さん・桐原さんたちが合意したことと義務について、青字は甲集団と関口さん・桐原さんたち運営委員の関係について、それぞれ垣間見える裁判所の「判断」部分です。

 

原告(山本眞理さん)は、(「甲集団及び乙集団はいずれも、2018年5月1日以降、全国精「神病者」集団の名称を自己の集団を称する名称として使用しない」という確認書2項)により、被告ら(関口さん・桐原さん・山田さん)は(「病者」集団の)名称不使用義務を負っていると主張する。

しかしながら、被告ら(関口さん・桐原さんたち)は確認書の合意主体であるものの、確認書の2項及び5項の主語は「甲集団および乙集団」とされ、(確認内容が履行されない場合の対応策が)定められている。

そうすると、(確認書2項の定めは)甲集団及及び乙集団の行動について定めることを通じて、(合意主体の)努力義務を定めたものと解するのが相当であり、被告ら(関口さん・桐原さん)が甲集団を名称使用させないことを義務づけたということはできない。

 

赤の部分に着目して読むと、関口さん・桐原さんたちは、「名称変更するための事務遂行義務」よりやや広い「甲集団が名称変更するよう、事務に限定することなく、努力していく義務」があると判断しています。ただ努力義務ですから、その努力がたいへん足りないとしても、法的に問うことは難しいでしょう。

そこで、青字の部分ですが、甲集団と運営委員の関口さん・桐原さんたちとの関係において、関口さん・桐原さんたちはもともと努力義務以上の権限は付与されていないと述べていると読めます。理由は明示されていませんが、「会則や代表が定められた団体ではない『集団』である以上、集団の意思は、構成員の総意で決定するしかなく、甲集団と運営委員との間には代表する権限も、業務執行権も存在していない」という「判断」(権利なき社団についての最高裁判例)が下敷きになっていると思われます。

ということであれば、運営委員会の判決文の解釈

 

2022年12月東京地方裁判所は、全国「精神病者」集団を名乗らないという約束をした事実はないと、山本眞理氏の請求を棄却する判決を出した

 

ではなく、精確に言えば

 

2022年12月東京地方裁判所は、全国「精神病者」集団を名乗らないようになるよう、関口さん・桐原さんたち3人は努力することを約束した事実があるが、全国「精神病者」集団には会則も代表も、運営委員会の業務執行権もなく、したがって、運営委員には名称不使用義務がないので、山本眞理氏の請求には理由がなく、棄却した。

 

ということになります。

3月30日の合意が覆ったとき、言った、言わないという争いになりました。信頼や連帯にもとづいた市民運動とかけ離れた内容の文書のやりとり。そのような実態に対応できなかった確認書の稚拙さ。

裁判所は、あなた方の組織は、合意した内容を遂行できるものではありませんし、まして遂行できなかったことを賠償する責任もないのですと言っていると思うのですが、それは法的形式からの結論だけでなく、実態を振り返っても受け入れざるをえないのではないでしょうか。山本眞理さんの棄却決定を受けて、ある種の正義を唱えるなら、それは関口さん・桐原さんたちの組織や活動のあり方への問いかけとなって反響するのです。

 

■名称不使用の合意は、「勘違いだった」のか?

2023年3月2日発行のニュースの中に、2023年12月24日付の関口さん・桐原さん・山田さん3人連名で「山本眞理さん宛の手紙形式」の“宣言”が載っています。内容は以下の通りです。

 

「私たちは…別々の集団として活動する道を選びました」しかし「名称使用しないという約束をしたはずなのに破られた」という山本眞理さんの主張は「心外」でした。「ただ東京地方裁判所は、確認書において名称を使用しないことを約束した事実はないと判断したので、この際、『山本さんの勘違いだった』『勘違いは誰にでもある』と思って水に流すことにしました」。

 

2018年3月30日の話し合いに参加した関口さん・桐原さんたちは、名称不使用の合意に、何ら関係しなかったかのような書きぶりですが、この表現はいままで述べてきた内容からもう一歩不誠実な方向へと踏み出しています。

「名称使用しないという約束をしなかった(至らなかった)」のは集合名詞としての“全国「精神病」者集団”です。

固有名詞としての関口さん・桐原さんたちは、全国「精神病」者集団が「名称を変更するように努力する義務」(判決)があったし、関口さん・桐原さんたち自身「事務遂行する」つもりでいたのですから、山本眞理さんの主張に対し「心外」とまで思うのは、集合名詞としての“全国「精神病」者集団か、関口さん・桐原さんたち以外の構成員であるはずです。

「解釈の違い」がおきたにせよ、顔と顔を合わせてその日に合意文書を作った山本眞理さん、関口さん・桐原さんたちです。関口さん・桐原さんたちは、山本眞理さんの言動が心外であったと不満を述べる前に、臨時総会で名称変更を実現できなかった至らなさを山本眞理さんに詫びなければならないと私は思います。集合名詞としての主語と固有名詞としての自分たちを、ある時は切り分けて、またある時は入れ替えるようにして使用するのはあまりに不誠実な態度であると思います。

 

今回の件で、運営委員会派の答弁書を読んで、全国「精神病」者集団が設立した1974年、会則と代表を設けないことを決めていたことを知りました。権力を否定し、少数者からの反逆のなかに真理を見出そうとしていた時代背景が感じられます。対面すること、その場で対峙する関係、現場から生まれるもの…を求めていたから、固定した会則はもたず、権力的になる可能性をもつ代表制を否定したのでしょうか。

2018年3月30日の現場、対面した人々はそこで何をしようとしたのか。何が生まれ出たのか。それを問う反響音は2023年に止むのか。さざ波のように過去からも響いてくるのか。いましばらく見ていきたいと思うのです。

全国「精神病」者集団の分裂について想うこと  『地を這う患者会キーサン患者会のキーサン革命の鬼えばっち』として今、想うことを書き記しておきたい、この『分裂騒動』が、対立してきたセーカツと食事会とレクに拘り続けてきた病者からはドウ見えたかを

全国「精神病」者集団の分裂について想うこと

 

全国「精神病」者集団の分裂について、徹底的に対立してきた、キチガイのセーカツを大事に大事にやってきた、『地を這う患者会キーサン患者会のキーサン革命の鬼えばっち』として今、想うことを書き記しておきたい、この『分裂騒動』が、対立してきたセーカツと食事会とレクに拘り続けてきた病者からはドウ見えたかを、いま現在もドウ見えているのかを、この間、ドのように感じていたのかを残さなければ、ならないと、想う。それが精神病患者会運動の歴史を残していく一助と為るであろうから、、、



 ここ数年間の東京での全国「精神病」者集団の『分裂騒動』のことである、沈黙をしているだけではイカンと想った。キーサン革命の鬼として、この『分裂騒動』をドウ見ているのかを、キチッと歴史に残しておきたいと想う。全国「病」者集団、あるいは全精連などと云う、『セージ的全国冠日本冠的制度政策提言的活動家講師様参考人様検討委員様学会理事様シンポジスト論客路線』と、ある種徹底的に対立してきた一人として、この分裂騒動は歴史に残るものと想っている。ある種の『障害学系の学閥』は、この騒動を分裂とは言わないようなのだが、それこそ、歴史を歪曲するものだと想っている。後世に患者会運動の対立も友愛も成功も失敗も愉快なことも不本意なことも、出来得る限り正確に残さなければならないと想っている。

 との想いからすれば、実際のところ、ここ数年来東京で為された種々の出来事は、全国「精神病」者集団が、【二派に分裂していった過程】と云うのが事実なのではないのだろうか。そして、その分裂からもうはや三年を経てしまった。ソロソロ、チャンと、言うべきことは言っておこうと想う。

 地を這う精神病患者会のキーサン革命の鬼えばっちとしては、全国「精神病」者集団は山本氏を中心とする絆派と、桐原氏・関口氏を中心とする運営委員会派に分裂したと云うのが、歴史的な真実であると認識しなければならないと想う。『分裂』なのであって、『分裂騒動』なのであって、それ以外のナニものでもないと、想うのである。しかも、この『分裂騒動』の発端となったのは、絆派からの運営委員会派の一員に対する「セクハラ問題」の提起だったと想うのだが、そもそも、その問題が行方不明と為ってしまった。刑訴までつこうてまで、して、行方不明にしていった。行方不明にしつつ運営方法の問題に話がすり替わって、分裂騒動に移行したというふうに、えばっちからは見えた。しかも、運営委員会派の『障害学系学閥』が意図的にそうしたと云うふうに見えた。さらには、運営上の問題に話がすり替わっていき散々揉め抜いた挙句に、とにもかくも一種の「協定」が結ばれ、双方ともに「全国「精神病」者集団」という名前を使わないという約束をし、御大層なことだが、弁護士はんや学者はん等の「保証人」さんみたいな人たちまで頼んできて、協定書を作り、双方サインした上で公表したミタイなのだが、一方の運営委員会派がその約束を堂々と破っているのには、驚いた次第である。フツー、ここまでしたら、両派ともその協定は守らなアカンと、想うのだが、驚いたことに、運営委員会派は理屈にならないような理屈をつけて、しかも、絆派が会員交流集会を開いて新しい団体名を決めたのを確認してから、協定を破ったようにキーサンセーカツの鬼えばっちからは見えた。ありていに言って、このやり口は『騙し討ち』としか言い得ないものであり、キーサンの最低限の『仁義』すら知らないのか、無視してもエエと云うコトか、狡賢い、恥を知らぬやり方だと想った。

 しかもご丁寧なことに、その運営委員会派の作った理屈というのが、ちょっとあり得ない。まず、折半すると決めた会計や「病」者集団の名簿が、偽物ナンじゃないのか、チャンとしたのをよこせと云うヨウな主張だったと想うが、ハッキリ言って、コレどうやって確認するんだと、不思議でかなわんかった。確認しようがないことで、絆派が、一方的に先に協定違反を犯したのだと言っているわけなのだが、これ確認しようがないのではないか、、、いや、してはイカンと想うた。だって、特に、名簿については、「病」者集団がその設立の時から協定を結んだ時に至るまでの長大な歴史的な名簿を、その名簿に掲載されている病者たちの了解も取らずに、本物かどうか弁護士さんや誰か第三者を入れて確認するということになったら、それこそ大問題だ。そんなことはやってはいけない。だから名簿に関しては確認出来ない事なのではないか、ソレで全てかドウかとか、、確認できないことで、確認してはいけないことで、運営委員会派は、ワザとに罠を張っていたと云うのが、外から見たキーサン患者会食事会とレクの鬼えばっちの個人的感想である。えばっちの妄想かシラン、、、ドチらにせよ、会員の名簿を掲載されている病者本人たちの了解なく、コピーして勝手に拡めたり分けたりしないでくれ、、大体この『分裂騒動』、いやに運営委員会派は、名簿をヨコセに拘り続けていた、と、そう想う。

 しかも、運営委員会派の総会において、協定を結んできたことを否決されたので、自派の民主主義的手続き優先で協定を破らせてもらったと言っているわけなのだが、これを言いだしたら、色んな団体間の全ての協定がこんな理屈で反故紙にされていったら、タマんナい。だったら、協定を結ぶ前に自派全体の了解を取っておくべきだったのだが、それこそ前もって総会でもミーティングでも開いて、、それをやらなかった運営委員会派の内部問題だ。さらに言えば、協定協議中の相手方に保証人方に、自分たちは自派の総意としての交渉上の全面委任は得ていない者であると、前もって言っておかなければならないハズなのである。最低でも、交渉上の委任のレベルと交渉結果が総会で否決される可能性もあると、前もって交渉の相手方と交渉の保証人方に伝えておくのが仁義と云うモノだ。或いはこの交渉結果を結論とせず、一旦持ち帰らさしてくれ自派全体に再度諮る必要があるからと伝えておくべきだった。ソウはしなかったわけだから、コレを『騙し討ち』と言っても良いだろうと想う。

 


例えば、えばっちも昔は発狂のきっかけとなった郵政職場で労働組合の役員だったから、労組の支部どころか分会単位でも、当局と団体交渉中にこんなことに為っちゃったら、フツーは執行部の総退陣ということになる。大体がコンなじゃ「三六協定」スラ結べん。おそらく、これも端っから『罠を張っていた』『騙し討ち』狙いダッタンだろうとシカ想えない。こういった点についても、ここまでのやり方を見ていると、運営委員会派はトンデもないやり口で、絆派の方が、まだしも、キーサンとして反権力としての仁義を守っているのではと、、、敵対してきたキーサン革命の鬼キーサンセーカツの鬼として、ではありながらも、感じていた。

 ただ、運営委員会派が絆派のこれまでの「病」者集団の運営手法を問題にしたこと自体は、『騙し討ち』『すり替え』の手口で無かったならば、大事なことだったのではと想う。「病」者集団と対立してきたキーサン患者会の食事会とレクの一員としては、「「病」者集団ニュース」に対する投稿原稿のあそこまでの恣意的な取り扱いや、「資料集成」に書いた「羅針盤原稿」でも指摘していたのだけれども、御大大野萌子氏をはじめとし、その弟子たる絆派も非常に恣意的で、独善的で、独裁的な運営方法だったと想う。こんな運営方法をしていたら、新しく入ってきたメンツが、おかしいと言い出すのは、当たり前のことだと想う。しかも絆派山本氏は、大野萌子氏の『代貸』として、虎の威を借りるかのように、「窓口係」と云う名目で非常に独善的・独占的に運営してきたと想う。患者会の中でこんなことをやったら、実はタイヘンなことに為る。セーカツを共にするみんなの日々の世論が、あまり声を出さない「分裂病圏」のなかまたちの、声にはならない声こそが、決定的な『拒否権』を持っているンだから…それが地を這う患者会のセーカツとレクと食事会と与太話をとおした意思決定と云うモノだ。ミーティングや会議形式の場ナンかでは、ナカナカ本音は出ては来ませんよ、、、ホンと、、

 ソンな運営手法が長く続いてきたからこそ、『分裂騒動』が始まってからずっと、運営委員会派は、これまでの絆派の恣意的独裁的運営手法に対する、若手の民主化改革派と、みなされていたのではないか、、だからこそ、一貫してこの『分裂騒動』の間中、そしてそれは、現在に至るも、周辺の専門職や活動家たちは沈黙をしてきたのではないか、し続けているのではないか、、だからこそ、ソウ装うことで、運営委員会派はこの『分裂騒動』をとても有利に仕掛け続けてこられたのではないか、とそう想う。逆に言えば長らく続いた絆派山本真理氏の側の「病」者集団運営の在りように、地を這う患者会のみならず、特に東京圏の活動家たちは本音では辟易していたのではなかったか、、それが、コウまでの運営委員会派桐原尚之氏のコンなやり方がまかり通ってシマッタ大きな要因の一つだと想う。チガウだろうか、、、、、だから『分裂騒動』ではなく『奪権闘争』だったのかもしれないと想う。そしてそれは、もはや、コレほどの汚い『騙し討ち』をつこうての意識的な『乗っ取り騒動』ダッタのではないかと、スラ、想うのである。『罠を張っていた』とまで想うのは、ツマリはこう云う、、、、

 ともあれ、トンでもないあり得ないような屁理屈ぶっこいて、協定を、約束を、信義を破ったのは、破っているのは、運営委員会派の方だと想う。これは、事実として、歴史に残すべきである、と云うのがキーサン患者会のレクと食事会の鬼喰いしん坊えばっちの結論である。

 さらに言えば、全国「病」者集団運営委員会派の手法として絶対に許せない点がある。それは、運動上の対立問題や運営上の対立問題や路線上の対立問題に、権力を利用したことである。これは絶対に許せない。東京での絆派へのやり方、それにある運営委員のムカシのジモトでのやり方を、聞いたり見たりしていると、論争相手を封じるのに平然と『権力に売る』と云うことをしているとシカ想えない。許せない。運営委員会派の他の人たちははこの点をどう考えているのか分からない、ソレでイイのんか、一体ドウ考えているのか、、、絶対に許せないことだ。やってはイカンということが分からないのか。刑事訴訟、民事訴訟の脅しをかけてくる。検事やら裁判官やら第三者委員会やらナンタラ審議会やら懲戒委員会、検討委員会、行政側、権力側、県庁側、市役所側、学会側、協会側の第三者機関やそう云うところに、論争相手や対立する相手を売って、口を封じる手口だ。少なくとも、患者会運動をやっている限り、同じ病者を権力の側に売るべきではない。司法や、刑事や、裁判官や、役人や、学会や、市役所や県庁のエライさんに、売るべきではない。そう、強く強く想う。これは、政治活動的な意味合いを持つ『シミン運動』でスラが持ち合わせている最低限の『活動家倫理』ではなかろうか。キーサン革命の鬼えばっち的に言えば、『キーサン患者会の仁義』『病者同志の仁義』といったものである。

 考えてもみたらよい、地を這う患者会、「病」者集団、全精連、お互いに罵り合ってきた。罵倒し合っていたはず、綺麗ごと言っても仕方ない、日向でも、日影でも、それはそれは、、、でも、大野氏や絆派の誰かをどっかに訴えようなどと想ったこともない。毛筋ほどもない。大野氏や絆派山本真理氏だって、地を這う患者会側をキーサン患者会の誰かを刑事告発や民訴をしようなどと想ったこともないダロウと想う。これは、山本深雪氏にスラ、そういう最低限の仁義はあると想う。全精連にだってアッタであろうと想いたい。そう云う意味では、この全国「病」者集団運営委員会派は、或るジモトでも、東京でも、そう云う『反権力と云う倫理』を完全に失って活動しているとシカ想えない。

 或るジモトであったことも、東京であったことも、これからも各所であるであろうことも、『反権力の運動』であるという倫理を全く失い、論争相手の口を封じるのに権力に売ること『権力組織利用』も含めて、とても汚い手口を使っていると想う。許されることではない。特に病者同志は、相手の論争相手が病状を崩した時は、少しは気を使うべきだ、それが『キーサンの仁義』ではなかったか、、、入院するような事態になったら、一旦その時の論争は打ち切った方が良い。それが、『病者の仁義』と云うものだ。運営委員会派は、『病者の仁義』と云うものを全く知らないか、敢えて無視しても良いと考えているとしか想えない。だから、全国「精神病」者集団運営委員会派の今後の活動には、危惧しか持ち合わせていない。御大大野萌子氏や山本氏と対立してきたこととは、全く違う状況、次元になりそうだ。それが、日本を代表する、そしてこの点も歴史の改竄がなされそうなのだが、国際組織でも日本を代表するのが「病」者集団運営委員会派となったら、国際交流において、これまで積み上げてきた絆派の努力や、大野萌子氏から続く活動や、あるいは、各地にたくさんあった『地を這う患者会』が積み上げてきた患者会運動総体が、全く歴史的に歪曲されてしまうと想う。タイヘンな事態だ、と想う。

 しかも、さらには、驚愕の事態となったのである。ナンと、今度は絆派の方が運営委員会派の方を、民訴で訴えたヨウなのである。何度も言うが、敵対する相手を『裁判所』と云う『権力』を利用して、つまりは相手を『権力に売る』やり方で、ドウにかしようと云うやり方は、絶対に絶対に不可と想う。ドウしちゃったんだ、この『分裂騒動』は、、、ソンな最低限の『反権力と云う仁義倫理』スラ『病者運動ボス』から消し去ってシマッタのか、、、、もちろん、敵対相手の口を封じるのに『権力に売る』あくどさの質と量と頻度やり口回数において、運営委員会派と同質なものではなかろうが、それにしても、ソレをやっちゃあオシマイなんじゃなかろうか。絆派の方の悔しい気持ちは分からんでもない、ソリャアあの『騙し討ち』だ、悔しかったのだろう、でもでも、ソレをやっちゃあオシマイなんじゃなかろうか。『権力に売る権力利用騙し討ち無仁義アクジ犯』とシカ言いようのない運営委員会派と同じダークサイドに堕ちてしまうことに為ってしまうコトがわからなかったのか、残念である。この判決がドウ為ろうと、も、ドチらが正統なる「全国「精神病」者集団」なのか、或いはドチらも正統なる「全国「精神病」者集団」ではないのかの判断を『権力』側の『判事』に委ねてしまったことに為ってしまうとは、気づかなかったのか、、、ソウ今回の『分裂騒動』で、問われているものの大きなものの一つが、『政治運動家エライさんに為りたい路線』『制度政策提言シンポジスト論客路線』『学者系有資格化ロビー活動家路線』どころか【民訴刑訴含む権力に売るのが運動だロビー活動の一環だ路線】に蓋を開けてシマッタことにあるのではないか、、、

 しかも、運営委員会派の一員は、コンなコトをしながら、ナナナナんと、患者会の活動とは歴史とは、アラアラ、『精神障害者の当事者運動とは障害者が能力が在るコトを自ら証明していくことであった』と云うようなコトを主張していたヨウなのである。ナンだか知らないうちに『消し去る』のがうまいと云うかナンと云うか、今はチガうヨウなのだが、、、それにしても、コンな主張をしていたとは、、、事実とも違うし歴史的にも全く違うのではアルが、それ以上に、コレはソラ恐ろしい発想だとシカ想えないのである。

 そも、80年代90年代全国各地にあった地を這うような単会の患者会が、ソンな主張を展開したことがあっただろうか、少なくともえばっちは知らない。えばっちの交流の範囲が余りに狭すぎたんで知らなかっただけ聞かなかっただけなのか、、、2000年代に入って「病」者集団や全精連がソンな主張をしていたのか、、、ダッタら誰が教えてもらえないだろうか、、それにしたって、ナン十年もケッコウ各地の患者会に実際に行って交流もさせて頂いてきたし、食事会も供に食べさせて頂いてきた、ありがたいことだった、カラオケにも行ったし、カチコミもしてきたし、カチコミのさなかに学会で声かけて頂いてその場でのイロんな交流もあったし、レクに参加させてもらったことも、例会やミーティングにも、、、そして現在も交流をしようと模索し続けている。大体「病」者集団のあの二か月に一度の一泊二日の会議にだって、二年か三年近くは通ったんじゃなかろうか、、藤枝友の会やごかいには、ドレだけ泊まらせてもらったのか分からないし、そう、しんまつや多田さん時代の八王子ほっとにも、よく泊まらせてもらった。福岡わらびの会にも泊まったなぁぁぁーー街にもよく泊まらせてもらった、、愉しかったなぁぁぁーーオモシロかったなぁぁぁーー全精連系の単会の患者会とだって交流はアッタんだ、、、、

 とにかく実際に交流したソコで病者なかまで話されていたことは、精神病院のハナシやアパートでの暮らし、病気のこと、クスリのこと、仕事やアルバイトのこと、家族とのこと、作業所でのこと、年金のこと生保のこと、歳のことや、虚しかったこと哀しかったこと、楽しかったこと、妄想や幻聴のハナシ、アイドル歌手や野球やテレビドラマ、なかま達とのレクや食事会、ココに来てドレだけ自分が助けてもらったか、だからジブンの今いるココのこと、ココをドレだけ誇りに想っているか、、ココでトモダチが出来たこと、スタッフが居る場合はドのスタッフにドレだけ助けてもらったか、良いことばかりではない、その反面のニクマンばなしも、最低なスタッフのハナシもよく聞いてきた。とにかくジブンが居る場のココの暮らしとセーカツと、なかま達との支えあって、助け合って暮らしているセーカツのことだった。本当にほんとうにソウだったのだ。暮らしのこと、セーカツのこと、ココに出会ってヨカッタと云う想いだった。もちろんなかまや家族との凄まじい暴力のことや憎しみの押しくらまんじゅうニクマンも聞いてきたし、眼前で見もした。先輩たちのボクなんかが遥かに窺い知れないような精神病院のヂゴクを聞かせてもらっても来た。電気ショックやスイカ割りや、看護士が怖かったことや、、、とにかく「ココが自分が能力のある事の証明の場である」ナンて想っている病者は一人もいなかったんだ、本当だよ。ナンでコンな主張が歴史であると言われなきゃなんないのか、分からない。

 能力がある、学歴の高い、政治活動家中心に制度政策提言的にヤッて、行政や学会なんかの役員でもやらせてもらってエラくなってくると、ソウ思い込んできちゃうのか、、、それにしても、、、そう流行しきった「発達障害概念」が提起するサポートチームがあれば自らの能力が開花しますとの、あの宣伝を利用しようとしているのか、、、それにしても、歴史とするには、余りに事実とかけ離れ過ぎている、、、だが、これから先はコンな主張がまかり通ってしまう世の中になってしまうのか、、、精神病者や障害者までもが、今の世の中の「高能力主義」「高効率化高合理化社会」「低リスク追求社会」にあわさなくったってイイではないか、いや逆だ、その流れに少しでも抵抗出来てシマチャ得るのが、キチガイキチガイたる所以じゃなかろうかと想うのである。しかもありがたいことに、キーサンが集まって支えあってお互いの暮らしの話をしながら、助け合いながらレクして食事会して愉しくゲラゲラ笑いながら美味いものを鱈腹喰って、世間様に対してドウドウとしているだけで、『高効率高能力高合理化低リスク追求社会』に対して充分過ぎるほどの『謀反人』として生きられるのである。ありがたいことである。

 とにもかくにも、ハッキリ言って恐ろしい時代に為ってしまったと怖気づいているのである。医療観察法と云う保安処分の法律制度病棟が稼働しているのである。『感染症対策』と云う名目で『ファシズム』化が加速している今、まさしくシミン様たちの『心性がファシズムに傾き』つつあるその中で、少なくとも『反権力』ではなければならぬハズの『病者運動ボス』達が、論争相手や敵対相手や分裂相手を『権力に売る』コトを平然と行ない始めたのである。絆派にはソウは為っては欲しくはなかった。『権力に売る権力乱用騙し討ち無仁義アクジ犯』とシカ言えないような運営委員会派と、同じようなことを仕出かすとは、想わなかった。コレは御大大野萌子氏も想像もしていなかったのではなかろうか、、しかしながらコウも指摘しなければならないと想う。そも『全国組織「病」者集団型制度政策提言政治活動家運動家シンポジスト論客路線』の当然の帰結としてこの事態はアッタのかもしれないと、、「能力のある事の証明が当事者運動である」と云う主張も、、、、ソウだから全国「精神病者」集団ではなかったのカモシレナイ、、全国「精神病活動家」集団、全国「精神病運動家」集団だったのだ、その本質がココまでになって為ってしまったと云うことなのだろうと想う。そしてまた、運営委員会派の在り様を見ていると、運営委員会派の或る一員のやり口を見ていると、言い過ぎかもしれないが、まるで【全国「発達障害特性者」集団】【全国「権病者」集団】と言えるのではないかと想ってしまう、、、、だから、全国「精神病活動家」集団と【全国「発達障害特性者」集団】との対立分裂であったのではないかと、、、「地を這う患者会キーサン患者会」との延々とした『セーカツとたまり場とレクと食事会とキチガイの暮らしと助け合い』と『制度政策提言的政治運動』の対立ではあったであろうと、、、、、また、『反権力と云う倫理』『キーサンとしての仁義』を守るのか反故にするのかの対立であり、『運動家活動家』と『キチガイセーカツ者』との対立であり、もしかすると『精神病患者』と『発達障害者』との対立かもしれない。そしてそれは、もしかすると『反権力』と『権力』との対立『能力の低い者』と『能力の高い者』の対決となるのかもしれない、、、、


 ともあれである、絆派提訴の裁判結果がドウ出ようと、運営委員会派がドのように『権力に売る権力利用騙し討ち無仁義アクジ』を繰り返そうと、キーサン革命の鬼えばっちは、全国「精神病」者集団と対立し続けてきた地を這う患者会、キーサン患者会のキーサンセーカツの鬼として、精神病患者会のレクと食事会の一員として、キーサン革命の鬼として、山本真理氏の方を全国「精神病」者集団絆派と、桐原尚之氏の方を全国「精神病」者集団運営委員会派と、呼び続けようと覚悟している。いやチガウな、、、絆派と運営委員会派と言うのも、もはや、止めようと想う、ドコか本当のコトが無くなってしまいそうだから、、コレからは、「病」者集団の山本派と桐原派と呼ぼうと想う。だって、ソレが真の意味での在り様の真実として、患者会運動の歴史に残らなければホンとじゃないから、、、山本派と桐原派なのだ、、、、

 そしてそれは、この『分裂騒動』がナニを問いかけているのか、ナニをもたらしてしまうのか、そして特に運営委員会派の今後の活動に対する危惧を、おなじ精神病の患者病者のみならず、活動家や運動家や、専門職や看護士看護婦PSW精神医、学者、学閥、学会、弁護士、心理士、作業療法士、支援者の皆さんに、提起したい。提起し続けなければならないと想う。そしてそれはおそらく、長年にわたり延々として、『おもたい生保の入院歴の長い高齢のクスリもおもたい、今や忘れ去られようとしている病者』のセーカツを、暮らしを、レクを、食事会を、支え合いを、助け合いを、キーサントモダチを、スタッフダチンコを希求し続けてきた地を這う精神病患者会側からの全国「精神病」者集団に対する仁義と云うモノなのである。

 

2021年2月21日起稿 7月2日脱稿

精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所

 キーサン革命の鬼 えばっち  江端一起

 



追記資料として

「全国「精神病」者集団」的在り様と、地を這う患者会、もしくはキーサン患者会という在り様との、生きざまとウンドーとセーカツの根本的な違いと、この間の対立の歴史を、『障害学を名乗るもしくは生存学を名乗るある種の学閥』からの歴史の改竄や歪曲を止めんがため、出来得る限り事実あったことは事実あったこととして、後世に残さんがために、今後の羅針盤として、遺さんがために書かせていただいたものである。その第二章第三章を特に、追記資料として付属した。本文の趣旨が、ドウ書いても伝わらないのではないかと想われて、、、、ドンドン長く読みにくくなって、、、、、、申し訳ないことである。

六花出版 「精神障害者問題資料集成 戦後編第十巻患者会運動」 所収原稿「患者会運動の資料を史料として残すための羅針盤として」

Ⅱ. 地を這う患者会列伝

 大体が、名前からして全く違う雰囲気を醸し出している。愛媛松山の「ごかい」(言わずと知れた「わしらの街じゃあ」「天上天下病者反撃」のキーサン患者会の親分である。キーサン患者会、地を這う患者会の希望の星であった)静岡藤枝の「藤枝友の会」(地元の精神病院内の患者自治会から発展して地域患者会として作業所に変化も拒否し、徹底して会員の会費だけでたまり場を維持し続けている類まれな患者会である)神戸の「ニューカトレア会」(阪神三人衆と言われたカチコミの親分達が言っていた、山本深雪氏が大阪人権センターだの大精連だのと目立ち始める前は、ここにパラシュートして来て元々から居るような顔して、クスリ飲んでるとこなんかいっこも見たことない、と)博多の「福岡わらびの会」(今現在に至っても手書きの会報を発行し続けている凄いトコロである)東京亀戸の「新松橋亭」(しんまつと親しみを込めて呼んでいた。東京の下町で、「天上天下病者反撃」を読んで感動して作ったのだとのことで、クボタクリニック脱藩組の支援者たちもナカナカの人物である)大阪高槻の「灯会」(言わずと知れた精神病患者会の老舗中の老舗、俳句を作り続けている)堺の「ガンバロー会」(全国各地にあった精神病院の患者自治会出身の会である。このころは、浅香山病院、岩倉病院、光愛病院等々の全開放を目指した病院には、もれなく患者自治会があったものである)住吉の「旅立ちグループ」松江の「つぼみ会」「麦の会」山形の「こまくさ会」信州の「プチノマド」「ひなたぼっこの家」広島の「モスク」(南座を惜しむすき者の会の頭文字をとったそうである)名古屋の「雑草会」清瀬の「一寸五分の会」(ここの会報は毎回面白いものだった)岡山の「すばる」鹿児島の「わかち会」土佐の「西風の会」北海道の「すみれ会」(回復者クラブと自称し始めた最初だと想う。道回連も名乗っていたかも。その後セルフヘルプグルーブだのマインドだのと、イロイロな名乗りがうまれたが、その後どうなったのだろうか。但しココは、セーカツの匂いはとてもしていたと想う)東京の「友の会」(患者会の元祖かもしれない)富山の「ルナの会」福井の「らばの会」いや「ろばの会」だったか記憶が定かではない。

 キリスト教系を前面に打ち出した「心の泉会」(各地の教会に集う月一くらいのたまり場をたくさん網羅していたので、考えてみれば、ココこそがある種実質的な全国的連合体だったかもしれない)全国「病」者集団の名古屋分会「ゼロの会」京都分会「ひまわりの会」全精連の県連としてあった「松ぼっくりの会」(ココは本当に患者会としてのセーカツの実質があった)全精連とは独立した立場の「兵精連」(全精連系の活動家が名乗る前に勝手に名乗ってしまおうと云うノリであった。実質はあったのかなかったのか)「大精連」(「病」者集団とも全精連とも独立した第三の制度政策提言路線政治大好き山本深雪氏の牙城と言っていいだろう)などもある。

 そして我が京都山科の「前進友の会」(1976年十全会病院を脱走した病者、命からがら退院した患者、アルバイトスタッフだった学生たちで結成した。初期のころは学生部隊の反十全会闘争と多彩なレクに特徴があった。88年からは、患者会が設立母体で運営主体である共同作業所も運営しつつ)である。こうやって、ココに想い付く限りの患者会の名前を並べ得ただけでも、書かせてもろうただけでも、ありがたいことなのである。地を這うように70年代から80年代にかけて、精神病患者同志のレクと食事会とたまり場から澎湃としての沸き起こり活動を続け、全国ドウタラとか少しもかかわりも持たず、90年代少しづつ減っていきそして大方は21世紀には、消えていた。

 

Ⅲ. 全国「病」者集団的なるものとの対決

 ところが不思議なことに全精連為る団体が93年に、厚生省の役人を発足大会に来賓として迎え、鳴り物入りで出来上がってくるのである。何が不思議かと言えば、各地の特色ある患者会は段々と活動を縮小していっているときに全国の連合体が出来ていったのである。ご丁寧なことには、県連と云うものもできていった。本当に実態があったのだろうか。現在の全精連の現状を考えてみれば、答えはおのずから明らかであろう。もう一つおまけには「病」者集団はこの動きに対して「歴史的な意義がある」として賛成しその宣伝ビデオに赤堀さんまで出演させてしまった。当時、不思議でかなわんかった。だって、全国「精神病」者集団と云う歴史ある全国組織があるのだから、結集したければソコに結集すれば良いことだったから、、、「地を這う」ように各地にあった患者会は、結局はその「病」者集団にも、新手の全精連にも積極的に合同していこうと云う動きには為っていかなかった。では何故にそうはならなかったのか。結論から言えば、このあたりから、「ごかい」「藤枝友の会」「前進友の会」と云う「キーサン患者会」「地を這う患者会」と自称していた我々と「病」者集団との対立が決定的になっていったのである。それは、当事者運動総体の歴史から見れば、ある種不幸なことだったかもしれない。もちろんその責めはえばっち自身もキーサン患者会も負わねばならぬが、また、大野萌子氏も「病」者集団も負わねばならぬだろう。

 ここで重要なのは、本質的には、大野萌子氏と対立していたのであって、山本真理氏と対立していたと云う事ではない事だ。山本氏は大野氏の『代貸』に過ぎなかったのだから、当然であろう。90年代を通して我々が対立していたのは大野萌子氏の路線であった。70年代80年代、偉大な先駆者であり指導者だった大野氏は、誰もが敬い「世話になった」と言うほどの存在であった。それは確かなことだと想う。当事者としての大野氏の存在がどれほどのものだったのか、全国精神「病」者集団がどれほどの存在であったのかは、筆者が書く必要もあるまい。この資料集成のそこかしこにちりばめられているはずである。だが、その「偉大なる」大野萌子氏も、赤堀さんを奪還して以後は決定的に路線を誤った、とそう想う。90年代以降、個人的にも運動体としても誰もが逆らい得ななかった大野氏に面と向かっておかしいと言い始め、問い続けたのが、キーサン患者会だったわけだ。

 はっきりとした対立軸は、ナンだったのだろう。全精連をどう規定するかは、大きかった。キーサン患者会は「アリャ御用団体だ」とそう公言していたところに、「病」者集団は「歴史的意義がある」と、言ってしまった。手帳制度の問題も大きかった。大阪での手帳のヒアリングを「ごかい」がカチコミを掛けて、完全に粉砕してしまったぐらいだった。我々は反対の立場だった。保安処分の『監察札』になってしまうぞ、と言っていた。一方「病」者集団は精神障害者にも手帳をとばかりその名も『赤い手帳』が欲しいと、ニュースに書くありさまだった。大野氏の路線だった。この辺から「制度政策提言路線」に急速にはまり込んでいく。その延長線上に山本真理氏や関口明彦氏らの活動家が、30万を超える入院中の患者を、圧倒的なナニも知らずに呻吟している病者を鉄格子とあの厚い鉄の扉の向こうに『置き去りにしたまま』国会の参考人になったり与党か野党か知らんが政党の検討委員やナンかの公的な機関の審議委員やあまつさえ精神医の学会の理事に為ったりしていった。それどころか、自分に敵対する者の口を封じるのに刑訴や民訴や第三者機関やらの権力に売り渡すことまで平然として、他の患者を脅しながら自分から手を挙げて国会の参考人になりに行くという桐原尚之氏のような若手を作り出してしまった。大野萌子氏の「病」者集団型制度政策提言政治活動家論客路線の当然の帰結であろう。

 しかし、そもそもの対立軸は、根本的な精神病患者会の存在自体をどうとらえるかと云う点にあったと想う。「病」者集団の立場は、つまるところ、大野萌子氏は、常々こう言っていた。「医者が作ったものは、患者会とは認めない、だから「ごかい」や「藤枝友の会」は、患者会では、ないのだ」と。これは、筆者が、「病」者集団の事務局会議に参加していたときに、直接そう聞いた。コレを聞いたとき、チガウなぁぁぁぁぁーーと想った。実際に「藤枝友の会」や「ごかい」の食事会に参加させてもらっていて、ソウ感じた。デモ、なんとなく、少しは、少しは、当たっているようにも想えた。「ごかい」と笠陽一郎医師との関係や「藤枝友の会」と中江清員医師との関係のことを言っていたのだろうが、そうはっきりと斬って捨てられるような薄ぺらたいものではないんですよ。だが、その上で、笠医師も中江医師も、精神医たちは相当強く患者会の意思決定に影響を与えているのもまた事実であった、と、そう想う。それを全否定してしまうのもまた、事実とはチガウと想うのである。今にして想えば、相互にその微妙なトコロを理解し合えていれば、と、そう想う。患者会とはキーサンのセーカツと病状と支援者のノリの上に微妙に成り立っているものなんですよ。

 キーサン患者会、全国の地を這うような患者会とは、本当に、重たい病者中心のセーカツ共同体的な側面が強かった。だからこそ、レクと食事会であった。一緒によく飯を喰った。患者会には患者会独自の味があるのです。「藤枝友の会」の駿河親子は、うまかった。「ごかい」で食べたあのカレーの味は忘れられない。「福岡わらび」のあの博多水炊きは激ウマだ。「しんまつ」で食べた、あれはナンだったのか冷しゃぶだ、美味しかった。たしか「ごかい」でも食べた。みんなで、お皿を回して、あれは高知全家連大会にカチコム前日の夕食だったか帰ってきてからの夕食だったか。だから、「病」者集団の食事会に参加させてもらっていた時に、コレは患者会の食事会じゃないな、会議参加者の休憩時間だなとは想ったし、「病」者集団の名古屋分会「ゼロの会」の食事会は、確かに患者会の食事会にはチガいないものの、参加者全員が大野萌子氏に過剰なくらいのおべっかを使いながら食べているのがよく分かった。本当に過剰なまでの阿諛とお追従に満ち満ちていた。味なんか忘れてしまった。そうそれは、患者会の食事会ではなかったのだ、まさしく、大野萌子氏を囲む会だったのだし、大野萌子氏の食事会であった。
 だから、「病」者集団は、活動家集団から、一歩も出ずじまいだった、のだ。本当に重たい病者中心の患者会ナンて、出来るはずがない。本当に口の重い身体の重い病状の重いクスリの重い病者たちが集まってくるには、そう、やはり精神医は必要なことだったのだ。重たい病者たちは、活動家風の健病者風の患者を、最初のとっかかりには決して信用はしないのだ。だって、部屋長と配膳係と、そしてすぐに退院していくヤツ等なんだから、、ソコのトコロを分かってはいないと、キレい事風の活動家集団になるだけのコトだ。そしてそのキレい事が、大野萌子氏の独裁体制を担保していた。ジッサイのところ、本当に患者会を作り、維持し、活動し、セーカツし続けていくのは、ムズカシイことなのだ。その最初のとっかかりに、そしてその継続にも、精神医や医療従事者や、健常者や健病者達は、必要だったのだ。モンダイは、その後、患者会側と、精神医とが、どのような関係性を構築するか、なのだ。特に、主治医ー患者関係にある精神医が、患者会の設立メンバーである場合には、その関係性によって、患者会側の主体性と精神医側の医療内容が、問われることに為るの、だ。患者会を維持するにあたっても、実は、健常者も、精神医も、そして、健病者も、居る必要があるのだ。だって、維持するには、ケッコウな金も、パワーも、手仕事も、必要になってくる。精神病患者会とは、結構な手間ひまと気力体力が必要なのである。その時の役割分担を考えてみたら、よい。モンダイは、分裂病圏、うつ病そう病躁鬱病圏、精神医はじめ支援者達、AC気味不登校気味やノイローゼや神経症圏の屈折した青年健病者達、四者の関係性に在るのだ。役割分担の在り方と、発言力の調整と、人間関係にアルのだ。支援者としての、形式会員でよい我が医療の監視をしてくれ、口は出さぬが手は貸そう、口も出さぬしカネも出さぬがヤレルことはヤルと云う精神医、看護婦看護士、ワーカーが必要なのだ。だが、発言力に制限を設けねばならぬ、そして、ドウいうなかまたちの意向が、まず優先なのか、、、、なのだ。ソコの微妙なトコロを分かり合えなかった「病」者集団も伝えきれなかったキーサン患者会も相互に誤っていたのだ。今なら、両方の誤りが見える、気がするのだが、、、、えばっちの妄想か幻覚か、、、
 ハナシを戻そう、それでいて、大野萌子氏は、プシ医師達からの積極的カンパを当てにしていた。精神神経学会での募金箱を持っての金集めには、ビックリした。学会最終日の総会議場でのあの光景は、実に異様なモノだった。アレじゃあ確かに、総会の壇上占拠ナンて出来るはずはない。理事会や運営委員会に、当事者を入れろと云う方向に走るハズである。一方キーサン患者会の側は、90年代を通じて、学会レク「カチコミ」をぶちまかしていた。松山学会、長崎学会、大阪学会、長岡学会、仙台学会、高知全家連大会、静岡全家連大会、大阪手帳ヒアリング、我々にとってはレクだった。シンドいキビシい病状を掛けたレクだった。クルシカッタ。精神病患者の病状を伴った怒りの爆発をソノマンマ、レクとして壇上占拠して叫び続けるのである。「造反無理」であった。造反するものに理屈は無いのである。大野萌子氏は「論客になって論破せよ」とのことであった。それが出来得る精神病患者がどれだけ居ると云うのだ。「造反有理」と「造反無理」の対立であった。



以上