❶患者会の活動(1)>(2)>(3)>(4)
❶患者会の活動(1)>(2)>(3)>(4)
(1)内輪の内向き 食事会とレク、最も最も重要な活動
と云うかセーカツそのもの
地道なセーカツそのものである。愉しく、タイヘンではあるがなかまたちとのセーカツそのものであり、たまり場を維持するためのお掃除やお茶の用意などを含んでの取り組みであり、患者会の根幹中の根幹であり、いよいよと為ったら、この活動だけと云うか、この活動そのものが患者会の本体である。
シンドい、オモタい病者にとっては、コレだけで、精一杯と云うことも多い。だからこそ、オモタいシンドい病者とともに、いやそうじゃない、オモタいシンドい病者中心にやっていこうとするキーサン患者会としては、この活動が本体と為る。それは、キーサンのセーカツそのものである
(2)内輪の外向き 身近な身近な自分たちが通っている病院診療所や福祉施設などを監視して文句を言う
(1)の活動の上に、自然と、自分たちが通う診療所や、作業所や、なかまたちが通う精神病院や、クリニック、デェイケア作業所のスタッフや精神医や看護婦や看護士やPSWに対して、言うべきことは言っていこうと云うことに為る。自然な流れで、最も身近な精神医療と福祉の現場を監視しソコの専門職のシゴトの仕具合を見つめ続けることに為っていき、意見を言うように為っていく。最も身近な、本当に自分たちのセーカツが生命が掛かっている精神医療、福祉の現場を監視し、文句を言い続ける、だからこそ、自分たちが掛かっているところに言っていくからこそ、真にキビシい最も確実で実際上のセーカツと生存が掛かった、最もセーカツに根差した『改革』の方向とは、このことに為る。この活動抜きでの(4)の活動はあり得ない。まずは、自分たちが掛かっているところを、セーカツが掛かっているトコへ、いのちが掛かっているトコへ自然に、セーカツの中で、セーカツを掛けて『変える』、だからこそ難しく、だからこそタイヘンだけれども、また得るものも大きい。だって、キチガイの生存が掛かっているから、、、本当に、、、
例えば、本人が望まない強制入院を、ドウ正当化し、倫理的に担保するのかのモンダイなのである。おそらく、これまでは、専門職能性と適正手続と第三者機関や適性化委員会が、その正否を判断できるとして、ソウ云う制度設計を制度政策提言をし続けてきたに違いないのである。しかし、それは、本当に機能したのか。書類上だけのことではなかったのか。良心的な専門職が家族と相談の上、本人の望まない入院を強制することを、患者会は、否と唱えるのである。あまつさえ、ナンかの行政的司法的機関が審査をしたのでオーケーです。強制入院をお商売にしている警備会社が家族の依頼で、良心的精神医療専門職の了解のもとに、強制入院させましたなどと云うのは絶対に不可である。だとしたら、その倫理的正当性は、ドウ担保するのか、まず本人の了解を取る徹底的にとる、そして最後の判断は、(1)の活動を通じて、長い時間をかけてなかま意識を育てはぐくんできた患者会が、(2)の活動を通じて監視してきて、長い時間をかけて関係性を構築してきた医療機関に、個別に、一人一人のなかまのこととして、判断していくのである。そう最終判断は患者会のなかまたちが患者会として判断するのである。ココに患者会の活動の、機能としての最大の意味があるのだ。(1)と(2)の活動が、最も重要な意味がココにある。そのためには(1)と(2)の活動は、どうしても必要なことなのである。このコトは、なかなかに、難しく、ココマデしか、文章化は出来ないと想う、けれども。「❻患者会の原則と基盤」で、もう一度、このことは取り上げます。
(3)外輪の内向き お客さんとレクや食事会で交流していく
(1)のレクや食事会の時に、たまに、一緒に、来ませんかと、コチラの方から誘うことがある。少し距離があるけれども、もしかしたら、精神病患者会のことを少しは少しは、分かってくれるのではないか、理解してくれるのではないか、応援してくれるのではないか、と云う期待を込めて、お誘いするのである。(2)の活動に直結することもアル。もちろん(4)につながることもアル。ごくまれにその中から、積極的な支援者に、、、、でも過剰な期待はしないこと、、、リヨウされて裏切られて、、、、ナサケナいハナシだ、、、、この間もアッタ、、、
(4)外輪の外向き 国会学会審議会等々での法律反対やら制度政策提言やら
コレばっかりやっていて、患者会だと、当事者の全国組織だ、と云う在り様は、ナンダカナァーーーと、想ってきました。そりゃあ、活動家団体ですよ。論客団体ですよ。国会のロビー団体ですよ。制度政策提言型活動家論客団体ですよ。まかり間違うと、御用団体になりかねない。政党や厚生省のナンタラ委員に為ったり、国会の参考人に為ったりとか、学会の理事会にでも入っていくことが、厚生省の役人や学会のエライさんに直にハナセるんだと云うようなコトが活動の中心になったり成果になったりすると、オカシなコトになりかねない。しかも、その過程でオモタいシンドいツラい病者を置き去りにし、ジャマ者扱いし、キレイ事風のリクツをこねて、排除する方向に向かうこともある。
ただし、(1)(2)(3)の活動を十分に担保したうえで、まだ、余力があるのなら、やらなきゃなんないとは想う、と云ったところか。患者会には、とてもとても、そんな余裕はなかった。でも、ナントカナントカやらなきゃと、想い、ムリをしつつ、行ったこともある。そして、ナント云うか、テキトーにあしらわれたような気がする。だからこそ、学会に行くときは『カチコミ』に為ったのではないか、しかもそれなら、シンポジストや講師に為るのはシンドい病者も踏ん切りさえつければ、壇上で叫べるのである。モノ申すことが出来るのである。『カチコミレク』の良いトコロであった、とそう想う。キーサンのこの手の活動は、目的のために表現手段がアルのではなく、その手段ソノモノが目的なのであった。それが『カチコミ』と云うシンドクツライけれども、オモタイシンドイツライ精神病患者が馴染め得なかったシンポジストタラ講演タラトカ云う表現手段を排除した結果だったと想う。『健常者性』が皆無なのも、傑出したトコロだったと、そう想う。
外輪と内輪と中輪もあるか内向きと外向きと横向きもあるか そう、中輪と云うのも在りだと想う。身近なセーカツや精神病院の中から、国会や国際交流などと云うモノの間に、市や町や区やと云う中輪を設定することもまた、新しい発見があるであろうし、国会まで行かなくても、対区役所の活動は、ジブンたちの身近なセーカツに直結しやすいだろうから、、、、そして、内向きと外向きの間に、横向きと云うのも設定することも在るかもしれない。「横向き」とはナンであろうか、すなわち、、、、、、
キーサン革命の鬼こと えばっち江端一起
えばっちのホームページ 乾坤一擲