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前進友の会やすらぎの里 みんなの部屋 キーサンセーカツ列伝第一巻 第一章 もさん列伝  精神病院でもシャバでも突き抜けた生き抜くチカラ

ご期待ください、鋭意推敲して遂行中であります

 

 

「患者自治会のススメ」の副読本として根拠として
前進友の会やすらぎの里
みんなの部屋
キーサンセーカツ列伝第一巻

 

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第一章 もさん列伝

 精神病院でもシャバでも突き抜けた生き抜くチカラ
第二章 れさん列伝 
 精神病院でもアパートでも仁義ある暮らしぶりの肝っ玉
第三章 ミスター列伝と食事会列伝 
光り輝くキーサンの星ミスターのキーサン人生と
みんなで美味いものをたらふく喰らう
第四章 包丁列伝
 オレたちは最もシビアーな隠しておきたい加害バナシでも
なかまとともに語り合う

 

2020/2/3  精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所

あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起

 

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ドキュメンタリー映画 「私たちの日々」と「かけがえの前進」 上映会企画中です

ドキュメンタリー映画

「私たちの日々」

「かけがえの前進」 

上映会企画中です

 

 

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私たちの日々 45分版 

是非ともご覧ください

www.youtube.com

かけがえの前進 15分版 

是非ともご覧ください

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2021年 あけましておめでとうございます 旧年中は大変お世話になりました 精神病者の居り場たまり場を開き続けてまいる所存でございます 本年もまた、何卒なにとぞ 宜しくよろしくお願いいたします   前進友の会やすらぎの里作業所 みんなの部屋一同  えばっちより

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2021年

あけましておめでとうございます

旧年中は大変お世話になりました

精神病者の居り場たまり場を開き続けてまいる所存でございます

本年もまた、何卒なにとぞ

宜しくよろしくお願いいたします

 

前進友の会やすらぎの里作業所

みんなの部屋一同

えばっちより

原則と基盤第二巻 「性」と「暴力」と 「患者会」と

原則と基盤第二巻

「性」と「暴力」と

患者会」と

序章

この文章は、ある方からなげかけられた、我々への疑問に対する、

回答として、構想されている。

我々の本質を突く疑問なので、本質で返そうと、想う。

ただし、キッカケなのであって、回答が全てではない。

だからコレは、患者会の原則と基盤を残そうとする取り組みの

第二巻となるものである。性と暴力と患者会のことを書いた。

 

本人の了解をとらないままに書いた。

了解を取れないのである、行方不明、連絡が取れなくなったなかまも、多い。

あの世に、行ったなかまも多い、岩蔵の共同墓のなかのなかま、も、多い。

替わって家族に、というわけにもいかない。

そもそもその家族もいないか、縁が切れている。

でも、そろそろ、書いておかなければと、想うようになった

25年間一緒に同じ釜の飯を喰って同じ便所でウンコしてきた

泣いて笑ってきた、えばっちが書くブンには、許してもらえるかとも想った。

四方ちゃんの意見も大きかった。

友の会のホームページ企画部と書記部、了解はある。

ただ、生者にとっては、これは、ニクマンが、湧くかもしれない。

死者にとっては、、、、ナニを今更なのである、、、、

それでも、今書いておこうと思ったのである。

さぁ、読んでください。

性と暴力と患者会と、です。

この後、書くことが出来得れば、

第三巻は「医者と健病者と患者会と」

と題されることになる

もう、書けないかもしれない



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基盤のキバン

 

我々のセーカツそのものは、とてつもなく、保守的である。

前近代的といえるほどに、保守的な側面が、ある。

しかも、普段は、ノンビリとしたモンなのである。

我々は、挨拶を欠かさない。来たなかまに、必ず、挨拶を交わし、体調をチョウシを訪ねる。話題の最初のものは、体調と天気と野球と相撲である。

男は男らしく、女は女らしく、ごく普通の、今や古いと言われるほどの古い古い、男女間の役割分担と、規範に沿って生きている。

目指していたのは、古い古いタイプのフツーの男女カップルと家庭である。そして目指しても、得られなかった。

友情も、古い古いタイプの前近代的な友情であって、それは、キーサン同志の仁義といったようなモノを基としている。同じ釜の飯を喰い、同じように精神病院で酷い目にあった者たちが、他に行くところもなく、集まって生きているのである。

同じ釜の飯を喰い、同じレクで、喜び合ったものだけが、なかまなのである。

年功序列というか、長く一緒にいるなかまが、素晴らしく、しかも年長者が尊敬される。より病気が重いものが、シンドイかんじでいるなかまが、尊敬され尊重される。賛成多数的な民主主義は、相容れない。まるでムラかブゾクの寄合のように、全員の合意がなされるまで、しかも、会議やミーティングと言った場ではなく、日常の中で話し合われていく。

少なくとも、「拒否」が一人でも出るようなら、意志決定がなされない。独特の役割分担と、委任と、信頼によって、セーカツが続けられていく。一人一票的な決定はなされない。世論がすべてを決める。日々のセーカツそのものが、会としての意思決定の過程ソノモノなのである。

 

まず自分のことを語ろう

縷々これは書いてきたか、長い抑鬱状態を実家で過ごすことになった。

妹の「働かないものが、朝から二つも卵食べなはるんけ」という、一言が、きっかけであった。壮絶な血みどろな状況になった。

その後、エバッチは、実家からも京都からも遠く離れた精神病院で、ほぼ、一年近くを過ごすことになった。

その入院先で、医局長をやっているその病院の改革派の医者から、後ろから飛びかかられて、殴り倒され、首を絞められ、そのあと、さらに起き上がってきたところを、殴られ、ハツられした。

記憶が定かではない。

周辺にいた患者も、

そして、情けないことに、看護士や看護婦、作業療法士といった連中も、凍り付いたまま、茫然と、この医者から患者へのむき出しの暴行を眺めていた。

後で、地域の新聞記者が、この事件を嗅ぎ付け、入院中のエバッチに、取材を申し込んできた。もちろん、断った。

身の安全のためである。しかし、記事は出てしまった。

エバッチの出発点かもしれない。新聞記事の、見出しは、とてもべたで、精神病院内で医者が患者に暴行、といったようなものだった。

その病院で、一生を過ごすことになった大先輩の患者から、

たった一言、その時に、こう言われた。

そのあとも、ことあるごとに、注意をしてくれた。

ボクが、医者に殺されるかもしれないと、心配してくれた、ンダロウ。

「医者には逆ろうたらあかん」と、耳元でささやいてくれた。

 

そのおじいさんとは、エバッチが退院した後も、文通を続けた。

結局、何かの感染症に罹られて、意識不明となり、別の老人施設に送られて、そこで亡くなられた。バクチク本キーサン革命を持って、枕元に置いてきた。

それが最後になった。想えば、彼が囁いてくれた言葉を、

胸に刻みながら、

その全く逆を、二十五年間続けてきたわけである。

 

あるとき、とくんが、くちゃんを、蹴り続けていた。みんなの部屋のテレビの前でのことだった。くちゃんは、一切抵抗せずに、蹴られ続けていた。それまでに、ニクマンの高まる気配があった。どうしようもなかった。バクハツであった。蹴り続けるとくんも、蹴られ続けるくちゃんも、キチガイナノデアッタ。うちゃんが、すっ飛んできて、とくんをねじ伏せた。みんな真っ青であった。とくんは、出入り禁止となった。とくんのことを忘れかけた時、とくんの父親から電話があった。ビョウインから行方不明、になった。分かりませんかね、とのことだった。分からないと、答えた。その後のことは、わからない。どうすれば良かったのかと、未だに想う。

 

きちゃんという、あくどい患者がいた。弱いものにたかり、弱い患者をクイモノにする、患者仲間から、用事をお金で請負い、釣銭をいつも、パクッテいた。ナンヤカヤと患者仲間から、お金を巻き上げる、そんな患者であった。

お使いを請け負って、万札を持っていき、二、三千円のものを買って、おつりは、自分のふところへ、と云う、精神病院のセーカツの中で、必ず出てくる、患者のひとりなのであった。

綺麗ごとではない、男の患者がお金に困れば腕力であり、

女の患者がお金に困れば、売春であった。そのようななかに、きちゃんがいた。

みんなの怒りは、きちゃんのその仁義なき行いに対して、沸点を迎えようとしていた。それは、どのようにして始まったのか記憶もサダカデはない。

それはいきなり始まり、そしてうちゃんがすっ飛んできて、きちゃんをねじ伏せた。こういうときに頼りになりそうなアルバイトスタッフの若者なんか、便所に籠っていた。紙が無かったんですよ、賃金の袋を破いて、ケツを拭いて出てきたら、全て終わってました、って言う。みんなが、肝心な時に、と言えば、紙をちゃんと、入れておいてくださいよ、あせりましたよ、って汗びっしょりで言った。

みんな、真っ青になりながら、こわばった顔で、笑った。

この事件の唯一の笑えるハナシであり、未だに、このことは、よく話される。

その後、きちゃんは、どこに行ったのか、我々は、知らない。

どうすれば、良かったのか。どうすればよかったのか。

 

暴力を振るえば、即座にみんなの部屋出入り禁止である。盗みも、そうである。嘘も、である。セクハラというコトバの前に、女を苛める男は、女性に対して無礼な男は軽蔑され、許されない。出入り禁止である。我々のセーカツは、古い超保守的な道徳に沿っている、としか、言えないモノがある。仁義礼孝信によって、生きていっていると言っても過言ではない。我々のセーカツに性的逸脱行為と暴力行為は、許されない。みんなの部屋出入り禁止である。そして、それは、以下に述べることが、矛盾しつつ、しかも、矛盾するがゆえに、根拠になるのである。みんなの部屋のセーカツがなぜにそうなるのか、矛盾しつつ、混乱しながら、説明される。これは、リクツではない。

 

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原則のゲンソク

そも、精神科治療なるものは、暴力行為と性的逸脱行為を、限りなくゼロに近づける試みであった。その究極点に心神喪失医療観察法がアル。全ては、綺麗で快適で健康で安全なシミン社会トヤラを守るためであった。

そのためには、措置入院、強制移送制度、精神科救急、警備会社の搬送サービス、電気ショックしかり、看護士の暴力しかり、大量投薬しかり、四肢拘束しかり、保護室しかり、閉鎖病棟しかり、であるならば、キーサン患者会は、患者会として、まっとうに患者会を維持し続けるならば、性の問題と暴力の問題は、その根底的な存在意義としても、考え続け、悩み続け、セーカツの場で悩みクルシミながら、実践していくしかなかった。患者会の歴史は、ウンドーというものを、切り離してみても、そのウンドーとして、セーカツソノモノが、性の問題と暴力の問題から、切り離すことはできなかった。

しかもそれは、『容認的態度』である。

我々キーサン患者会は、性の逸脱を積極的に容認する。

我々キーサン患者会は、暴力自体を積極的に容認する。

何となれば、我々がキチガイだからである。

我々は「イロキチガイ」「キチガイに刃物」といった

昔ながらのコトバは、

我々の本質を表している。

我々キチガイキチガイたる所以と考える。

我々はそのような者であることに、誇りを抱いている。

キチガイを、ありとあらゆる手段を通じて、快適で、綺麗で、安全で、健康なシミン社会に同化させる取り組みを、我々は、峻拒する。

その峻拒は、理屈からは来ない。

セーカツと、我々が歩んできたセーカツの歴史とが、自然に自動的に峻拒させるのである。

当たり前である。

我々のナカマで、家族に向かって何らかの暴力行為を働かなかったものはいない。えばっちは、あの映画「かけがえの前進」の中で、妹に対する殆ど殺人にまで至るような暴力行為を告白している。もう一人のなかまは、家族に向かって出刃包丁を持ち出したことを、「キーサン革命宣言」という本の中で告白している。我々の持つ狂気ソノモノが、暴力行為から出発しているのであり、そしてそのことは、もう二度としません、改心しました、治りました、というような全精連のようなハッタツ障害者のようなお利口さん路線に、直結するものではない。

逆である。自分の暴力性を認めると言うことは、暴力を全否定すると言うことではなく、二度目三度目もあるカモシレナイという、加害者性と向き合うと言うことである。

加害者が暴力を容認するのである。

被害者が暴力を容認するのである。

NHKのテレビのような、あるいは全精連や全家連が、ハッタツ障害者が、心優しき障害者達があんな悪いことは二度々しません、これからは、みなさんのめいわくにならないように生きて参ります、

という、加害者が暴力を否認し、被害者が暴力を否認するといった、

健常者社会に積極的に同化しようとするものとは、明らかにチガウ。

そも、ハッタツ障害者も全精連も、被害者でアルことを前提にしている。

みんなの部屋で、ここに、家族にシビアーな暴力をふるうたモン、

手あげてみぃひんか、と問えば、ほぼ全員が、ぼくもです、って、手を挙げるのである。血をみたか、と問えば、血をみました、って、答えるのである。

こぶしを握って、ぐぅで、親父を殴りましたからね、って言うのである。

刃物を、両親に向けました、って言うのである。

なかなかに、言えないことが、ハナサレるのである。

 

我々は、加害者であることを前提にしているのである。

我々は、被害者性からノミで、モノを言わない。

加害者性から、も、モノを言うのである。

特に、加害者として、モノを言うのである。

そこが、ハツタツ障害者や健病者や全精連や、全家連や、

お綺麗なシミン派人権団体とのチガイである。

実は、あれほどの権力を持ち腐った精神医も看護士も看護婦も、

被害者性からモノを言うのである。オカシなはなしである。

健常者社会、シミン社会そのものが、被害者性からモノを言うのである。

われわれキーサン患者会は、チガウ。

なぜなら、我々のセーカツソノモノが、我々のなかまたちソノモノが、

我々のなかまの中で、二度目三度目の暴力があるからである。

実際にあった。

その時に、その暴力行為を完全にゼロにするためなら、

精神科治療を全て受け入れていくという態度を取るわけにはいかない。

キチガイの生ソノモノに暴力はアルのである。

精神病患者会だから、暴力が怖い、という態度は、実は、スバラシく正しいのである。その上で、過激な抗議行動を取る患者会なので、暴力がコワイ、という態度もまた、実は在りがたいのでは、ある。

がしかし、本質は、我々がキチガイだから、暴力が怖い、という態度こそ、

実は正しいのである。綺麗で安全で快適で健康的なシミン社会にとって、これほど、キケンな存在はいない、と、想う。

ダイレクトな暴力がアルのだから・・・

我々キチガイはキケンな存在なのである。

精神病患者会の本質に迫っている、ので、アル。

「やられたらやり返せ」といった、次元の問題ではなく、

勿論、「やられたらやり返す」のは、当然なのではあるが、そういった次元のモンダイとしてダケとらえているわけではない。

キーサン患者会とは、暴力性を積極的に容認する、そこから、出発するのである。そもそも、我々の存在自体が、我々のセーカツソノモノが、暴力性と向き合うことで、成立しているからである。

我々のナカマ内でのニクマンから来る大爆発に、みんなで、戦々恐々としているのである。明日被害者になるカモシレナイが、また、明後日は加害者になるかもシレナイのである。来週は加害者であり、来月は、被害者なのである。

従って、キーサン患者会のキーサン患者会たる最大の所以と特徴は、己が加害者性を持った暴力性の積極的な容認にあると言っても過言ではない。

 

我々は、悩み続けるのであって、

だからこそ、こういう結論に飛びつくわけではない。

私たちは一切、今後一切、暴力はふるいません、アレは病気のせいでした、立派なセンセイの皆さんに治療して頂いたおかげで、クスリのおかげで、

電気ショックのおかげで、治りました、まっとうなニンゲンになれました、

センセイと看護士サマのおかげです、今後一切暴力はふるいません、と。

ソンナことを本気で病者が言っているとしたら、もし、それが本気だとしたら、自立したキーサンにも自立した患者会にもなれないと想う。

我々は、加害者にも被害者にもなり得る。

それが、キーサンのセーカツである。

勿論、生き延びるため、あるいは、退院するために嘘でも良いので、暴力はおこしません、と、そう言わないと退院できないのであれば、嘘でも良いので積極的に言うべきであると、想う。だから、嘘言って、退院するのです。嘘で良いのです。嘘こそ神なのです。生き延びましょう。

だが、しかし、そう、信じ込んではならないと、想う。

嘘で、退院したのだから、後は、嘘無しで生きよう、と、想う。

そして嘘無しのキーサン人生の方が、シンドいカモシレナい、だが、我々は、そのシンドい側を選んだのである。それが、キーサンという生き方を選んだ、と言う事なのだ。

我々は、いつ如何なるときにも、暴力と共にアルのである。

暴力とともにあらんことを。

「暴力行為」を、「性的逸脱行為」に読み替えて貰っても、真である。

つまり「反社会的行動」全てが、真でありうるのが、

キチガイキチガイによるキチガイのための患者会

キーサン患者会なのである。

以上が、患者会としての原則である。

患者会の原則としては、これが原則の中のゲンソクである。

 

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原則のキバン

以下は、患者会の原則の中の基盤である、原則と基盤があり、その中に、また、それぞれの中に原則と基盤がアルのである。

患者会の基盤としては、ナカマ内で暴力をふるった場合、出入り禁止である。性的逸脱行為も同じである。従って、この原則と基盤を、どのようにバランスを取りながらセーカツし続けるかが、キーサン患者会の根幹となる部分である。つまり、原則を守りながら、あくまで原則を守りながら、みんなで、みんなのチカラによって、基盤を維持し続けることである。誰もやらない、誰かがやってくれる、のではない、自らが、やるのである。

だから、却って、全精連や全家連の皆さんや、ハッタツ障害者やクラブ方式のみなさんに、聞いてみたいものである。ナカマ内の暴力をどうしているのですかと。すぐに治療と隔離とクスリですか。性的逸脱行為を、すぐに治療とクスリと隔離と拘束ですか、と聞きたいのである。精神ビヨウインに売り渡すんですか、と。それとも権力に売り渡すのですか、と。法的手続きですか、と。

 

その上で、我々のもう一点主張しておきたい暴力に関する問題がある。

それは、精神病者が表現するという問題である。

精神病者が、何らかの表現をしたい場合、その表現手段は、表現とする目的とイコールになる、とえばっちは想う。と云う、か、イコールになってしまうのが、キチガイなのである。表現しようとする内容目的が、ソノマンマ表現手段となってしまうのである。そうなってしまうのがキチガイキチガイによるキーサン的表現なのである。リクツではない、セーカツから、言えることなのである。

つまり、キチガイにとっては、表現は目的のための手段、ナンゾになり得ないのである。そこが、まさしく、我々キチガイキチガイたる所以だと、想うのである。「短絡的」「間を端折ってしまう」「原因と結果の間をうまく説明しきれない」と云う、言い方に近いのではあるのだが、そうではまた、ない。のではあるが、リクツを言えばソコに近いのでとは、想う。

ともかく、ゲンジツでは、キーサンの表現は、学者や医者や健病者やハッタツ障害者のいうところの綺麗な安全で快適な、健康的な、シンポジウムや、パネリストや、学会の講師や、行政の検討委員などと言ったものに、向くわけがないのである。ソンなモノに向かない我々キーサンの表現ソノモノが、キチガイ人生の本質なのである。

逆に言えば、そういう学会や講演やシンポ場面から阻害され、排除され、質問も受け付けて貰えず、しまい口には予約制の会場だからと言って、会場にも入れさせて貰えない場合、我々には一体ドノヨウナ表現手段が残されているというのだ。また、シンポジストタラパネリストタラいうもんになれるのは、そも、ハナシができる、コトバを操れる病者に限られるのではないか。

だとしたら、それは、軽い病者サマやハッタツ障害者サマ、健病者サマ、の、お利口表現手段であって、重たい病者は、ドウシタラ良いのだ。博士サマ当事者の講演といったところとは、真逆の表現にならざるを得ないのである。

その状況の中に、十年ほどいれば、キーサン患者会の抗議的表現手段が、

暴力的要素を含むことを、同意しなければならないと想う。

そういう、排除の歴史を、我々は嫌というほど想い知らされてきたのである。

リクツを並べられるものだけが、表現者足り得る、そんな表現手段を

キチガイは、心の底から、憎悪するのである。

より具体的に言おう。今後、神聖申請新制無責任ハッタツ障害当事者スタッフ人形抱っこ臨床薬学博士法務省矯正局翼賛運動ボスを名乗り始めている片岡聡博士サマに対して、我々がイロン異論がある場合、その異論をどのように表現すべきか、具体的に考えて貰いたい。どのような場でどのように、異論を表現できるであろうか。

まずもって、講師の先生サマサマの意向により、我々は会場にすら入れないであろう。シンポジストにも呼んでは貰えないであろう。そもそも、ネットで参加申し込みを受け入れてもらった者のみのクローズドでやり始めるであろう。そして、カタオカ先生サマサマが論文を発表された学会誌に、我々が反論投稿を載せようと想っても、まずもって、こころの科学誌は、掲載しないであろう。しかも、本人は、なんだかんだと、これが発達特性です、といて、セキニンも取らずに逃げ回ることであろう。ソンナコトは分かり切ったことである。過去に、何度も、現実に、そう扱われたのであった。

暴力反対というならば、片岡聡博士サマに対するキーサン患者会からの反論の表現手段の対案を出さなければならない。

もちろん、それは、具体的にやれることでなければならず、現実的にやれることでなければならない。そしてその対案は、表現しようとする目的とイコールでなければならない。そして、重たい、コトバを操れない病者も参加できなければならない、と、えばっちは、想うのである。

我々キチガイにとって、表現は目的の手段ではない。

表現ソノモノが、目的なのである。

『カチコミの意義』とは、そういう意味なのである。

「病状を伴った怒りの暴発」のみを、病者の正当なる怒りの表現として暴力を容認しているのではない。モチロンこれはこれで、サイコーに素晴らしいコトなのである、、、まず、ソコカラ出発する、そして、ついに、『カチコミ』にたどり着くのである。

『カチコミ』といった場合、そこには、なにがしかの計画性と組織性があるのであり、その若干の計画性組織性を持った、その上での病状を伴った怒りの暴発を組み込んだカタチでの、病者の正当なる怒りの表現としてレクレーション的暴力性を『カチコミ』として、積極容認しているのである。

それは、ビミョーなバランスの上に成り立っているのである。

したがって、「病状を伴った怒りの暴発」のみをシブシブながら

ナントカ認めようとして、実は認めきれていない、

良心的医療業者福祉業者的立場を一歩も二歩も、

というか、相当程度、踏み越えチマったモノなのである。

それは、今後、くじらの母親中心家族会の相談会に、

我々がカチコミをかけると、言った場合どうなのか、

神聖申請新制無責任人形抱っこ法務省矯正局翼賛運動ボス片岡聡ハツタツ博士とソの小教授ズ団体にカチコミをかけるといった場合、どうなのか、で、問われることになる。

我々が問われるのではない。

あなた方が、問われるのだ。

良心的医療業者福祉業者的立場のみなさんが、

問われることになるのである。



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基盤のゲンソク

そもそも、精神病者の発病のキッカケに性的抑圧と、思春期を上手く乗り越えられなかった、

異性と上手くつきあえなかったというのがある。

もてなかった、というのがアル。

中年になっても、異性にもてなかった、異性とカップルになることができなかった、結婚なんてエリート病者のもの、結婚・出産・家庭などというものは、勝ち組エリート障害者のものだったのである。

だからこそ、我々は、フツーの男らしさ女らしさ、恋愛、結婚に、憧れたのである。そのあこがれは、ほとんどの場合、絶望に為ったのである。そこから出発しなければならない。

フェミニズムの論者が障害者ウンドーの場面で、大しくじりをやらかすのは、

概して、こういう障害者の想いをわかっていないからである。

いや、わかっていて、ソレをリヨウしてしまうことなのかな・・・・ヒドイやりようだ。

さらに付け加えよう。

患者会において、若い、健康で、溌剌とした、専門職のスタッフが入ってくることは、そのスタッフ達が大もてにもてる、と言うことを意味している。

これは、デイケアや作業所でも一緒だと想う。

病棟では若い看護婦さんとイケメン看護士かな。

そうそう、若手の精神医も、か。

いや、逆かな、つまり、

大もての健常者スタッフは、その性的魅力をリヨウしてデイケアや作業所を維持していると言っても過言ではない。しかも、そのうえ、ご丁寧にも、ソンナことをしながら、病者同士の男女交際禁止とかいう、ルールをこしらえたりするんである。もしくは、主治医の了解と治療のもとでの男女交際とか・・・・旧プシ共闘系精神医のやりそうなことでは、アル。

外来診察室で、男女交際の指導をヤル、といったことが、この手の医者が、ワシは革新的精神医だと自認する、所以、となっていたりする。

デェイケアスタッフは己が性的魅力を最大限にアピールして、精神医は外来診察で男女交際をコントロールして、その上で外来待合室やデイケアでは男女交際禁止、メール交換禁止、といったルールをこしらえたりするんである。

デェイケアの青年たちは、スタッフのオネーサンに淡い恋心を持ってしまい、党のスタッフには、そんな気は全くないものの、無意識にその好意を利用して、デェイケアを維持しているのである。結果、その恋心は、病者同志カップルの芽を無残にも、摘み取ってしまったりする。そんなことを何度も目撃してきたのである。中には、せっかくうまくいきかけた障害者同志カップルをものの見事に破壊した状況もはた目から、ようようと、見させてもらったのである。

ちなみに、スタッフの意図的性的魅力のリヨウという点では、不登校、引きこもりのセーネン達のもとに「レンタルオネーサン」を派遣する、というような、NPO、ようなモノ、までアッタ。ヒドイハナシダ。オソロシイハナシダ。

ところが、まぁ、同じような状況のなかで、

患者会は、自主的に、自主自尊的に病者同志で、その問題を解決しようとするので、想像を絶する男女間と男男間と女女間の、想像を絶する、キチガイ同志のニクマンの嵐ということになるのである。

精神医の外来にも、ふらないようにする。

したがって、これは、場合によっては、殺人、暴行、自殺、つきまといといった、想像を絶する事態を呼ぶことになる。我々は医療モデルではないので、それを、自分たちで解決しようとする。しかも、その解決しようとするなかまたちもまた、性的な問題で思春期を乗り越えられなかったナカマが多いのである。

 

女の子と、セックスをしたことも、キスしたことも、抱き合ったこともなかった、そんななかまが、多かった。そんなことは、奪われてきていた。

誰に。精神病院と医者と、母親とに。そして自分自身に。

病状で、若いころ、それどころではなかった、って、言うなかまも、多い。

ほんとうに、そうだ。

 

しかし、本当に、患者会内で男女カップルが本当に素晴らしく成立することがある。ふさんとたさんが、ここで知り合い、そしてここで愛をはぐくみ、ついに、結婚することになった。結婚式は、みんなでやった。飾りつけも、料理も、司会も、出し物も、みんなでやった。素晴らしい結婚式だった。

二人は、友の会みんなの部屋と、えばっちの住む団地の中間地点に新居を構えた。しばらくたって、病者同志カップルの病状を伴った夫婦げんかのたびに、えばっちがアパートまで走って見に行くという、新婚セーカツが続いた。結構激しい夫婦喧嘩だった。暴力もアッタ、さしずめ今ならドメスティクバイオレンス、と云うことになるんだろうが、ゲンジツと云うのは、またチガツテいてて、なんというか、タイヘンだったんだ。よく、呼び出されたモンだ。

そのうち、こんな電話も、かかってくるようにもなった。

セックスがうまくできない。やり方を教えてほしい、といものだった。

どうしたものかと想ったが、男と女が、好きあって一緒になってお互い裸になって、布団の中で試行錯誤しているうちに、うまくいくもんだと。お互いはじめてなんだから、最初の一、二か月は、うまくいかなくたって、裸で抱き合ってたら、充分愉しいじゃないかと、ナニカそんなことを言った。毎回毎回タイヘンだった。それでも、このカップルがうまくいっていたら、とても、良かったと、想う。破たんは、別のところから、迫ってきていた。そのハナシは、今ここではまだ、書けない。

 

十年以上は、ムカシのことである。

あるとき、やさんと云う、女の子が、うちにアルバイトとして、はいることになった。今から想えば、ヂゴクの釜が開いたと云う、形容がピッタリな状況になっていく。

その時、まさか、こさん、と云う、第一世代を代表する女性スタッフと一緒になって、アレホドの事態を招こうとは、想いもよらなかった。

大概、今までの場合、やさんタイプと、こさんは、対立するのが、フツーだったからである。ところが、あれは、レズか、と云うような、やさんとこさんのさわりっこの中、ドンドン事態は、深刻になっていくのであった。

やさんが言うには、自分は、トランスジェンダーと云うもので、男でも女でもなく、如何なる性的な法律や規範や道徳には、縛られないんダトいう。だから、男とも、女ともセックスするし、何人もの人とセックスするし、同時に複数の恋人がいることも、おおいに結構なんだそうである。

しかも、見た感じは、はっきり言ってとっても魅力的な女性ソノモノなのであった。

最初に引っかかった大問題は、男便所と女便所を区別していることが性差別に当たる、とかいうことで、便所を男女共用にすべきだ、と云うトコロから始まった。そして、それは結構な議論になった。今想えばバカバカしい限りである。その時に言っておくべきだった、だが、しかし、元気な若いやる気のある魅力的な女性スタッフの魅力たるや絶大なものであった。ついには、おとこもおんなも、やさん中心のピンクサロンのようになっていった。それは、想像を絶する状況で

何人かの古いナカマたちから、こんなところに来るのはもうイヤだ、から

やさんはワシと結婚してくれると約束してくれた、から

家族も友の会も、みんな捨てて、やさんと駆け落ちするんだ、とか

まさに想像を絶する事態となり、複数の人死にの可能性が出てきた。

誰かが、想いきって、やらなければならない時が、迫ってきていた。

そして、それは、徹底して、行われた。

この時の傷はいまだに癒えていない。

現在の友の会のみんなの部屋のは、未だに、

この傷から、いかに脱却していくかという過程の中にある、と言っても過言ではない。この時の傷は10年以上経った今でも癒えていない。

 

つまるところ、1976年の発足以来、の、

そしてえばっちが知っている1990年以来でも、

本当にたくさんの、ここにも書ききれないいろんなことがあった。

自殺に直接的につながったことも何度かあった。それはまだ書けない。

本当にすさまじいことが、怒ったのだ。それは、すさまじく怒った。

どうしようもなく、悲惨にオコッタ。

詳細を書くことは、まだ、未だ、できないのではあるが、それは、本当にとてつもないことが、引き続いて、オコッタのである。

 

せっかくの病者同士のカップルなのにどうしようもない家庭内暴力

病状を伴った三角関係のもつれ、

同性愛者の存在やトランスジェンダーの存在と

もてなかった男と女たち、

愛の逃避行事件、

カップルになった途端、女は生き生きとして病気が治ったようになり、

男はドンドン悪化して再入院、

看護婦さんにつれなくされたとその看護婦を追い掛け回す男患者、

その逆、デェイケアのスタッフにふられたといって

男スタッフを追い掛け回す女患者たち、といったモンダイもタイヘンダッタ、

その軋轢から逃げてくる病者達

せっかく病者カップルになりそうなのに、

それをぶち壊していくデイの女性スタッフたち

もてにもてる看護婦とイケメンスタッフたちへの憧れからくる

喧嘩ケンカケンカ、、、、

でも、それらを、はるかに凌駕するようなことが、イロイロあったのだ。

このモンダイを真剣に考えたい、という方がおられたら、

直截にハナスことはできるが、文章化は、出来ないと想う。

これらを我々は、自主自尊自衛自問自答自闘自レクのなかで、

ナントカしようと、あがきにあがきにあがきにあがいてきたのである。

 

この結果、我々前進友の会は、意図はしなかったが、本当に意図しないまま、男だけの患者会となった。我々は今、本当にホットしている。

このホット感は、おそらく、理解されないだろうと想う。本当にそう想う。本当に、男女間でいろいろあったのである。そしてそれを、ナカマ内で解決しようとして、どれほどの目に遭ったことか。

だからといって、もっとも大切な人間関係を、どこかの申請神聖ハッタツ無責任人形抱っこハツタツハカセ法務省矯正局翼賛運動講師口だけ片岡聡の言うように、スタッフや医者に丸投げなどということは、出来なかったのである。

どれだけ、クロウにクロウを重ねたか、もうカンベンして欲しい。

そして、男ばかりになった今、今度は、意図的にこれを維持したいと想う。本音である。従って、フェミニズム傾向のある方で、母性傾向が強い女性の方は、遠慮して頂きたいと想う。われわれは、さんざん嫌な目に遭ってきた。もてなかった。パートナーもできなかった。子どもなんて以ての外。家庭など持つことができなかった。我々はそれで良いと想っている。そして、こうなって初めて、二十五年来のなかまたちが、思春期時代の性の抑圧について、あけすけに語れるようになった。それの方が、今の我々にとっては、良かったと想う。

 

「母性豊かなフェミニズム傾向のある暴力否認型のやる気のある素晴らしい女性スタッフ」はほぼ、必ず、「依存サセ屋」になるというのが、えばっちの、経験からくる結論である。

 

福祉や医療現場において、最悪の結果をもたらす者たちである。もちろん、たいていの大多数のアクトク殺しの病院福祉を除外して、デノ、はなしである。

若干、「見えやすいアクジ」と「見えにくいアクジ」のチガイにも、近いハナシである。

一見よさそうに見えるのが、かえってオソロシイ。しかも、精神障害者知的障害者、そしてなかんずく、ハツタツ障害者の中に、依存したくてしたくてタマラナイ者たちも多い。なら、依存してもらいたいスタッフと、依存したがる当事者なら、スバラシイ組み合わせだと、想われるであろう。つまり、モンダイは、そこにあるのである。母から自立しようとして果たせず、次は、医療福祉専門職から、自立できなくなるのである。

そのような「依存サセ屋」スタッフに、もっとも、なりやすいのが、その「母性豊かなフェミニズム傾向のある暴力否認型のやる気のある素晴らしい女性スタッフ」なんである。

したがって、このような方は、患者会には、

近寄らないで頂きたいもんなのである。

自立しようとするキチガイを必ず、依存サセ、牙を抜き、飼いならそうとする。

必ず、ソウナル。オソロシイ。

エバッチは、見てきた、味わってきた、

そしてソレが、結果として、ナニをもたらしてしまうか、見てきたのでアル。

今後ハッタツ障害バヤリとともに、人形抱っこ片岡聡のようなハッタツ博士の依存して暮らしたい、徹底的に依存して才能を開花だ、ミタイなのが、ドンドン出てくると、より一層、エバッチの言う『母性主体フェミニズム傾向型依存サセ屋』タイプの医療福祉従事者の問題が出てくるであろう。十年ほどたてば、おのずと、ワカッテキマスヨ。タイヘンナ事になってますからね・・・・おそらくはね。

 

キチガイキチガイによるキチガイのための、

精神病院と医者と看護士に復讐を誓った、

牙を抜かれなかった

異性にもてなかった、

オトコばかりの腐った暴力容認の、

健常者シミン社会に敵対的な、

クスリがゼロにモならなかった、

就職も就学も出来なかった、

キーサンとして仁義あるトモダチづきあいを大切にし、

食事会とレクばかりしている、

特にこのところの食事会メニューの充実は

素晴らしいトコロの

反社会団体とは、反社会復帰団体とは

キーサン患者会前進友の会の現在のアリノママの姿である。

ダラケきった腹の出た

中年高年オッサン病者達の

パラダイスに行き着いた

のである。

ありがたいことである。

このまま進みたいものである。

もしこのケイケインが、今後患者会をやりたいと想う、みなさんのお役にたてれば、

と、そう想う。

が、誰にも、見向きもされないことであろう

が、それでも、歴史に遺し、そして

最後に、笠陽一郎医師と、ハッタツ障害と

対決しながら、滅んでいきたいものである。

 

2014/3/12起稿   前進友の会 えばっち




精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所

あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起

 

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ストレス解消法としての 『精神医療改革運動』 と云う視点で、見直すと 小林信子も、笠陽一郎も 人権センターウンドーも セカンドハッタツ断薬療法も 見えてくるものが、アルと、想いますよ だから、キチガイの側から言わせて貰えば こう叫びたいんデスヨ わしらが、なんでコイツ等のストレス解消の ネタにならなきゃなんないんだ バカバカしいったらありゃしない と云うコトなんですよ もう一つ、信仰の場面から来ている方々には、こうも、言っておきましょう。 「医療従事者側の信仰証明法としての

『見えにくいアクジ』とは

ナンなのだ

『すり替えアクジ犯』とは

いったいナニ者なのだ

  

見えにくいアクジのハンニンたちは、

見えやすいアクジをコロシの精神病院を

糾弾する、暴く、攻撃する

赤裸々にする

世間様に訴える

とても、素晴らしく徹底して、見えやすいアクジを暴く

だが、そこにあるのは、主体と客体の逆転である

いや、むしろ、主体である患者を客体化し

主体化してはならぬ医療従事者が、主体化シテシマウことでこそ、

より、徹底的に、見えやすいアクジを暴けるのだと、言わんバカリに

 

そう、だから、暴き方がすばらしく、糾弾する勢いが、より激しく

より根底的になればなるほど、ソウなるのである。

しかし、それでも、コロシの精神病院のアクジを徹底的に暴き、

攻撃することに、意義がアルのでは、と云う声がする

モチロンだ、モチロンだとも、それは、導入部としては、とても、大事である

しかし、いつまでも、そのママでいることは、できない

なぜなら、その糾弾と攻撃は、当事者が、被害者本人が

すべき、なのだから。

だから、導入部としてソレは許され、

しかも、当事者自身が糾弾できるように、

ソノように、持って行ける場合のみに置いて、

ソレは許されるのである

しかし、見えにくいアクジのハンニン達は、ソウは、考えない

それどころか、主体と客体とを逆転したまま、

被害者当事者の代弁まで、買って出てしまう

コレでは、当事者は、いつまでたっても、

被害の糾弾や生き延びる、行動の主体には、なれないのである。

もし、そうなろうとする当事者が出てきそうになると、彼らは彼女らは

そのウゴキをコントロールしようとしてしまう。

コントロール不可と、判断すると、ツブスのである

オソロしい

「見えにくいアクジ」と糾弾し続けてきた、最大のワケである。

 

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一方、実は、実は、

病者の側にもセキニンがアル。

どういうコトかと云うと、

ツマリ、本能的にその医療従事者達の本音を感知した

患者たちは、ジブんの身を守るために、遠慮をし始め、

おもねるようになっていき、

自分の方から統制下に入りに行こうとするのである。

そして、その統制下に入りに行こうとした病者側代表が健病者でアッタ場合

それは、容易に、当事者スタッフ、

当事者性看板型翼賛病者運動ボスとなるのである、

全精連を、そして、病者集団をみよ、よく分かるではないか。

そして、お互いに、持ちつ持たれつの関係性を構築するのである。

 

カンジャ会と見えにくいアクジのハンニン達とが、

何故、本質的に

そりが合わないかが、分かろうと、いうものである。

しかも、ウンドー場面での見えやすいアクジに対する糾弾が

激しければ激しいほど、

セーカツの場としての自分たちの勤務先での医療内容について、

自分たちは、良心的精神医療の現場で、ヒッシに患者さん達のために

闘っているのだ、と云う、錯覚を、ドンドン増幅していくのである。

だから、益々、当事者にとっても、世間様にとっても、

コロシの悪徳病院にとっても、エラソウに、なってくるのである。

何時しか、自分たちの提供する医療と福祉の内容の自己点検すら

怠るようになるのである。

現在のニホンの精神医療のゲンバでは、モチロンのこと、

過去の精神病院などは特に、どこをドウ頑張ってみても、

精神医療従事者から、全き加害者性を消し去ることなど、出来得ないのである。

精神病院のゲンジツを、少しでもわかっていたら、即座に了解である。

そこに、確かに、精神医だけは別であろうが、

ツマリ、精神医は精神医と云うダケで推定有罪とみなす、ので、

精神医は、加害者的側面ではなく、

ドウあがいても、加害者ソノモノなので、ココでは、別モノとして、

扱おうとするキモチが強い、強すぎる。推定有罪、と云う奴である。

だから、現在のニホンの精神医療のゲンバでは、

モチロンのこと、

過去の精神病院などは特に、どこをドウ頑張ってみても、

看護婦は、看護士は、心理士は、ケースワーカーは、

加害者的側面を、消し去ることは、出来ないハズなのである

加害者的側面、ソコにおいて、まさに、患者にとっては

正看護婦や、准看護婦、心理士や、PSWや、

資格を持たない看護助手のチガイなんぞは無いのである。

だって、ソコに勤務して、給料貰って飯を喰って

子育てして、子供の学費を稼ぎ、

一戸建てのローンを払ったのダカラ

その間に、その病院は全開放に為ったのか

四肢拘束はゼロになったのか

電パチは無くなったのか

少なくとも、閉鎖の患者さん達の前で、腰につけた鍵で、

ジブンは自由に病棟に出入りしていたのなら

そのシーンを赤裸々に語るべきである

その腰に、ジャラジャラいわせた鍵束を付けて、

自由に出入りしていたのなら、

ソレは、立派な加害者である。

だって、ソコに入院していた患者さん達は、自由には、

出られなかったのだから、どんなに、どんなに望んでも、

出られなかったのだから

閉鎖病棟の在る病院でフツーに看護婦として看護士として

病棟でシゴトしていること、ソレ自体が、

もう加害者的側面を持っているのだ

チガウと言えますか

その鍵束は、ボクたちにとっては、孫悟空の筋斗雲ですよ

夢の又夢だ、空を飛べちゃうんだから

空飛んで、精神病院のあの閉鎖の保護室から

出られちゃうんだから

四肢拘束の手伝いをし、電パチの手伝いをし、そして、そして、、、

抵抗することすらアキラメた患者さんを閉鎖病棟まで、案内しなかったのか。

だが、闘う良心的精神医療従事者の彼女なり彼らからは、

スッカリ、己が加害者性は、消し飛んでシマウのである

しかも、被害当事者の代弁までデキルと、思い込んでシマウ

とくにそれが、見えやすいアクジを糾弾するためであると、ナルと、尚更である

だから、『見えにくいアクジのハンニン』に為ってしまわないためには、

不断に自分自身の提供する医療内容の自己点検と

そして、その結果としての、リクツではない

具体的な加害エピソードを、どれだけ赤裸々に

どれだけ数多く語れるかどうかに

懸かってくるのでアル

もちろん、その語りは、当事者が語るための導入部にシカ過ぎないものである

と云う自覚と、さらには、だから、代弁ではなく、

当事者本人たちに語ってもらうべくと云う自覚、

もしくは、姿勢が、重要なのである。

そしてそれは、精神病患者会と、

一緒に、ヤルしか、実は、できないことなのである。

なんとなれば、ヤハリ、ニンゲン、弱い、自分自身を、良く見せようと、

思ってしまうからなのである。

特に、ジッサイに、見えやすいアクジの暴露と糾弾とに、

成果を上げ得たカツドウ家的医療従事者こそが、

この罠に陥りやすいのである。

そして、主体と客体を逆転しつつ進めば

何時しか、制度政策提言路線の罠に陥ることになるのである

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そう、良心的精神医療従事者が

ウンドーの成果と、患者さんのためにやっています、

と云う、ことを明らかにシヨウトすればするほど、

そして、ウンドー場面での成果が上がり

自己のセーカツの場での勤務先の病院での医療実践に

ゲンカイを感じ始めた時に、ソレは、容易に

制度政策提言路線になっていくのである

何故か、主体と客体とか逆転したまま、

ウンドー上のコトとジッサイのジブンの

セーカツとしての医療現場との遊離が、

ドンドン進むからなのである

ジッサイのセーカツとしての医療現場でのストレス解消を

精神医療改革ウンドーで、ヤッテしまうのである。

ソリャア主体と客体が、逆転するワナ

ジブンのストレス解消のためのウンドーなんだから

しかも、そのウンドーとやらで、

そこで、改革の答えを見つけようとすると、

それを社会と制度に求めるとなると、

そう【見えにくいアクジ犯】に為ってしまい、

制度政策提言路線に陥るのである。

ああ、もちろん、改革の答えを、

病理と病気と障害と患者本人と治療法に求めようとすると

そう【すり替えアクジのハンニン】に、為ってしまうのである。

両者の共通点は、主体を患者に求めず

主体を精神医や看護婦看護士に心理士に

ツマリ医療従事者に求める、ことなのである

 

 


したがって

見えにくいアクジのハンニン達と

すり替えアクジのハンニン達とは

地続きなのである

大ざっぱに言って、チガイは、

改革の答えの見つけ先のチガイと

己が加害者性のとらえ方とその表現のしかた

それに、セーカツの場である病院と運動バメンとの、

どちらに、身を強く置くかのチガイであると、想う

まぁ、ストレス解消の方法のチガイと、言っても、いい。

 

ハッキリ言って『医療従事者側』の

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ストレス解消法としての

『精神医療改革運動』

と云う視点で、見直すと

小林信子も、笠陽一郎も

人権センターウンドーも

セカンドハッタツ断薬療法も

見えてくるものが、アルと、想いますよ

だから、キチガイの側から言わせて貰えば

こう叫びたいんデスヨ

わしらが、なんでコイツ等のストレス解消の

ネタにならなきゃなんないんだ

バカバカしいったらありゃしない

と云うコトなんですよ

もう一つ、信仰の場面から来ている方々には、こうも、言っておきましょう。

「医療従事者側の信仰証明法としての

精神医療改革運動」も、お断りです、よ、と。

 

だから、まぁ、どちらも、

改革の主体を、医療従事者に置き

けっして、患者自身に置かない

一見置くように見えても、それは、患者グループを

或いは、患者自身を己が統制下に置ききれると、思っている場合だけである

そう、医療従事者達は、自己の統制下に、当事者を置ききれる、

と判断した時だけ、当事者を立てて、リヨウするのである

全家連と云うか、コンボ、みんなネット系、

全精連系統の団体を見て観れば、良い

 

病者集団ダッテ、おんなじコトなのだ

ダッテ、良心的医療従事者と云うトコロを、、、、

病者集団が、にじり寄っている、にじり寄ろうとする

良心的精神医療改革政党関係者、良心的精神医療改革官僚、

良心的精神医療改革教授、良心的精神医療改革弁護士、

良心的精神医療改革議員、

に、置き換えてミレバ、アッという間に、了解でアル

 

そしてそれは、ナニも全精連や病者集団ダケのモンダイなのではない

キーサン患者会にも、シビアーなモンダイなのである

キーサン患者会は、支援者を名乗る、最も身近な、

精神医療従事者との、特に主治医タル精神医とのカンケイ性を

とらまえなおした方が良い。

これは、ゼッタイ的にヒツヨウになってくる

それが、後世へのセキニンと云うモノである

我々、キーサン患者会は、長い歴史の中で

真に当事者主体を追及し続け得たと、自負できるのかどうかは、

まさにまさに

ココにかかっているのである

最も身近な、同志的支援者の医療従事者や福祉従業員達との

特に、主治医たる精神医ナル者との

カンケイ性の再確認と、再構築が、必要であると、

えばっちは、己が25年間の自己批判として、強く強く、想う、のである

何時までたっても、どのようになっても
あくまで、患者は、病者の側は、客体ナノでアル

見えやすいアクジを、コロシの精神医をアクトクの精神病院を

暴き糾弾し、改革していく物語は
どこまでいっても、患者の物語ではなく、病者の物語ではなく、
それは、たとえば、

良心的看護婦ガンバルの物語になるのである。
改革派精神医ガンバルの物語になってシマウのである

だから、
ソレを読んで、拍手できるのは、
同じ境遇の看護婦か精神医ダケなのであって、
タネにされた、病者の側は、結果として、

どのように暴露されようとも、

結局は、客体化されてシマッタ、代弁されてシマッタ患者側は、

ナンダカ、オカシイナァァーー
と云う違和感を抱えながら、

タネにされ、ネタにされた感を

もって読むことになるのである。
そうして、世間的には、いやいや素晴らしいシミン運動ではアリマスまいか
コロシの悪徳精神病院の見えやすいアクジを暴いた、

とても素晴らしい改革運動ではアリマスまいか
と云うコトで、拍手になるのである。
違和感を抱えつつ、当事者は、このなりゆきを、首をかしげつつ
やはり、当事者のやろうとすることなど、やっていることなど、

語ろうとするものなど、叫ぼうとするものなど、書いたものなど、

人気も無いだろうなぁぁぁーーと、想いつつ、沈潜していくことになるのである。
ジッサイ、当事者の書いたモノなど、専門職の書いた本などに比べると
圧倒的に、少なく、しかも、まったくもって不人気で、売れないのである。
シカモ、出版されたとしても、

ソレは専門職のお墨付きを得たモノだけが、出版、発言、出来る
と云うのがゲンジツなのである

当事者の口演や、講演や、シンポジストもまた、同じくなのである。

ゲンジツを直視すべきなのです、患者側も、ね

この点でも、ナンダか錯覚してやいませんかね、、、、、

錯覚してますよ、ホント、当事者の側もね、病者の側も錯覚してるよ、ホント

と言いたいのである

ドナタ様に対しても

特に、良心的改革派医療従事者と

その、統制下にあるハッタツ系当事者の諸君らには

錯覚してますよ、ホント、と、指摘したいのである

 

そして、ココで、さらにまた、もう一つの

重大な問題に、ぶち当たるのである

すなわち、当事者の了解を取る、と云う事なのである

 

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さて、見えにくいアクジ犯もすり替えアクジ犯も

どちらさんのハンニンの医療従事者福祉従業員のミナサマ方よ

どんなコトをエラそうに、書いているのかシランが

書かれている当事者本人の了解は、取れていますのヤロな

代弁までしてはりますが、

書かれている、タネになっているご本人さんの了解は取れていますのヤロな

口寄せなら口寄せで、了解は、取りましたのか

了解と、言うても、イロイロあります。

そう、了解の程度と云うか、了解の度合い、と云うのもアリマスな

そして、そして、キーサン患者会の本音から言わせてもろうたら

本人の了解、ほど、誘導されやすいものも、アリマセンな。

ホントでっせ

知らない、フリなど、通用しません

アンタはんら、よーーうにわかってて、当事者本人の了解を

うまいこと、誘導しはりますな

本人の意向の尊重を言いながら

上手いこと、入院にもっていかはりますな

ある種、騙しのテクニックだすな

今流行りは、本人の意向を無視しながら

誘導しながら、セカンド減薬ハッタツ断薬療法

と云うコトでっしゃろな

だから、その成功美談の書き方も、ソウならはりますな

不都合な真実の方は、本人の了解が取れなかった、と言うて

上手いこと、狡猾に、隠さはりますな

見えにくいアクジのも、すり替えアクジのも

えばっちは、その巧妙さ、狡猾さ、嫌というほど、見てきましたからな

よーーうに、知っているんでっせ

当事者の了解を、どのように誘導して取るかは、

実は、リヨウ心的医療従事者の良心的為るがゆえに

染みついてシマッタ、性のヨウナものなのである

キーサン患者会側から見ると、

イヨーに狡猾で、狡賢く、愛に満ち溢れている好意的行為

とでも、表現しようのないモノなのである

だから、その手の書いたものを読むときに、コウ想いますな

どうしても、代弁してしまって書いたのなら

口寄せであることを

了解を取れていないことを

明示すべきですな

了解を取って書いている、と云うなら、

どの程度の了解なのか、どの程度誘導したのか

それらも

明示すべきですな

どーーしても代弁せざるを得ないというのなら

そのせざるを得ないという理由と条件を明示すべきですな

その理由と条件とは、ドンナものになるのかを、

ジックリと考え尽くした、うえでね。

そして、それは、また

当事者として、モノを書き続けているエバッチにも

当然のことながら、突きつけられるモンダイなのである。

だから、今、ここに、こうして、ココに書いているのである。

誰からも、喜ばれないことを、受け入れられないであろうことを

これでもかコレでもか、と、書いているのである。

そしてそれは、自分自身にも、突き刺さってくることなのである。

では、えばっちが、この点に関し、己が自身の原稿では、

どう明示しているか、ここで、明らかに、しておきたい

2014年8月号の「むすぶ」から始まった今回の、

セーカツ実録の連載にあたって、その最初の

段落に、どう書いているのか、その号を買って、

参考までに、読んでみて頂きたい、と、想う

まずは、ね

不十分なものである、不充分ながらも、

えばっちは、どのように、書きはじめたのか

そう、だから、今回の、むすぶの連載にあたって、

最初の号の最初の段落に

あのように書いて、連載を始めたのである。

キーサン患者会キチガイとして、ドウ書くのか、なのである

買って、読んでみて頂きたいと想う。

ロシナンテ社刊行2014年8月号

「原則と基盤第二巻 性と暴力と患者会」である。

 

その上で、で、ある。大体が、ね

アンタ等のビョウインと云う仕事場で飯のタネにされ

アンタ等の改革運動タラの場でストレス解消のタネにされ

それで、

アンタ等が、エラそうに御託を並べて言うか書くかスル時にゃあ

我々当事者本人の了解は、反故にされてますのやで

そこまでされて、キチガイが、何時までも、ニコニコしていると、

多寡を括っているのでしたら、

そろそろ、眼を覚ましてもらいまひょ

しかもしかも、この本人の了解の利用が、また、酷いわエグイわ

見えにくいアクジ犯、すり替えアクジ犯にとって

都合のいい事なら、どんな誘導してでも、本人の了解とって

公表しまんのやわ

あーーもちろん、嶋田和子のように、

本人の了解無視してでも、公表しマンのヤワ

ところが、都合の悪い、不利な事なら、

本人の了解を取れなんだので、公表できません

と、コウなんですわ、ほんと、素晴らしい、ご都合主義ですワナ

本人の了解が取れないので、公表は控えさせてもらいます。

それだけ聞けば、ナントイウ、ちゃんとした対応と、想いますワナ

ところが、この文が出てくるときは、己が不都合な真実を隠したいとき

と、決まってますのやわ

ところが、己が都合の良いことは、本人の了解なしでも、本に書く、

と云うのが、コウいうね、ヤタラとヤカラな、レンヂュウですわ、ほんま

本人の了解の利用の一例、だすな。

精神医療改革のためには、必要な事、らしい、ですヨ

クタバレ、アホンダラ、この糞すボケ、スカタンアンポンタン

 

だから、コトは、立場性のモンダイなのである。

自己が語る立場をハッキリさせねばならぬ

そして、代弁をしてシマツテは、ナンニもならないのだ。

代弁、それは、一見、よさそうに見えて、実は、徹頭徹尾

患者自身の牙を抜くことに為るのだ

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「口寄せ」なら、良いのだ

当事者なのか、

当事者が見えやすいアクジを暴露して糾弾しているのか、

それとも医療従事者が医療従事者の立場で暴露して糾弾しているのか、

それとも医療従事者が当事者の代弁として暴露糾弾しているのか、

はっきりしなければならない。

医療従事者が代弁としてやる行為は不可である。

それでも許されるとしたら、それは霊能者という立場で亡くなった者の

怨念を書く場合のみである。

すなわち、「口寄せ」なら、それはそれでよいとは想う。

ただし、霊能者であることを明示しなければならぬ。

 

以上を踏まえたうえで、

「口寄せ」ではなく

医療従事者が良心的医療従事者であるがゆえに、

当事者の被害を代弁し、

代わって糾弾暴露できると思うのであれば、

それは非常に危険な兆候であると想う。

まさに見えにくいアクジか、

すり替えアクジのハンニンに為ってしまう

心性の第一歩なのである。 

「わたしが、やらねば、だれがやる、

この可哀そうな人たちに代わって

わたしが、やらねば、だれがやる」

この燃えるような正義的、良心的、使命感が、

これが、第一歩に為るのである。

そして、この燃えるような正義的使命感が、

専門職としてゲンバで、不遇をかこつとき、あるいは、

自己のゲンバでの医療内容を改革し得ないときに、

このウンドー的恣意的代弁行為は、

特に、時に、時に、特に

フェミニズム傾向のある母性豊かな

やる気の溢れた頑張る精神医療従事者や

精神福祉従業員達を、

徹底した『依存サセ屋』にシテシマウのである。

その結果ナニが、おこるのか、は、しれたことである、

当事者のもっとも当事者らしい『牙』が、スッカリ抜かれてしまうのである。

『牙』を抜かれてシマツタ患者は、精神医療と福祉の

『家畜』『家族畜』『精神医療畜』『精神福祉畜』『改革運動畜』

『精神学会畜』『福祉学会畜』『審議会畜』『分科会畜』

と為り果てるノデある。

ハッタツ系、障害学系当事者たちは、自ら、ソウ為りに行っていると、

言って過言ではないのでアル

 

だから、代弁行為は御法度ナノデある

恣意的示威的自慰的侍医的代弁行為こそが

キチガイから牙を抜き、飼いならし、

見えにくいアクジのハンニンへの第一歩に為るのである

 

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だから、立場は、ハッキリとさせねばナラヌ

看護婦は看護婦の立場で、医者は医者の立場で、発言せねばナラヌ

しかも、主体と客体を、逆転させること無く、でアル

追及しだすと、コレは、実は、相当に矛盾することに為る、と云うことが、

お分かりであろうか

だから、これは、ビミョーなバランスのモンダイなのである

しかし、このビミョーなバランスを取りやすい、目安と云うモノがアル

何度も、言ってきたのだが、

それがすなわち、医療従事者としての己が加害者性を、

コレデモかコレデモかと物語ることなのである

必ず、物語るコトなのである

ソレが、一つの目安、なのである

 

リクツではない、前進友の会みんなの部屋の

実は実は、みんなの部屋の歴史ソノモノなのである

これは、実は

そさんのことなのであり

みさんのことなのである

 

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前進友の会と云う患者会

みんなの部屋の中において、

そさんとは、ナニ者だったのか

みさんとは、ナニ者だったのか

クルシイけれども、ソコが赤裸々に語られなければならぬ

リクツではないのだから

患者会の歴史として、語られなければナラヌ

しかし、未だ、ソコは、友の会のみんなの、同意が、得られなければ、

語ることが、ムズカシい物語なのだ、ツラい物語なのだ

それでも、ここまでは、語っておこう

同意は、書記部とホームページ企画部には、とっておかなければ、、、

それにしても、語り難い物語なのでアル

 

そさんは、そして、みさんも、第一世代の、学生部隊出身者である

そさんは、その中でも、指導者的立場にあって、と云うより、

十全会東山サナトリウム告発糾弾運動の先頭に立っていた

そして、そう、前進友の会を、つくった、その中心人物ダッタのだ

そして、当然、その後長く、前進友の会は、彼の統制下にアッタ

と、そう言って過言ではないと、想う。

また、患者たちの、バリバリの代弁者ダッタのだ

ボクだって、そさんに誘われたので、友の会に入ったのだから

ボクは、そさんに言われて、入ったのだった。

そして、そさんに言われるまま書記部を担うことに為った。

そさんに、言われるままに友の会活動に参加していたのである

彼に言われたのは、やすらぎの里と前進友の会を半々にすることだった。

そのころは、やすらぎの里が99で前進友の会は1や、とか、

ココは、くるしみの里や、と云うような、声も出始めていたときだった。

だから、ボクは、まったくの、そさんの意識的な友の会復活のための

タマとして、投入されたわけなのだった。

で、まずは、会報を出してくれと、言われた。

そうして、本当に、そさんが、そういえば、事は、そのように進んでいくのだった。

そさんの意向とチガウことなど、出来ない、そういう雰囲気ダッタ

ボクも、最初のうち、そんなことに、あんまり、疑問も、抱かなかった。

でも、何時か、友の会のミーティングにもやすらぎの里の運営委員会にも、

ソンなハナシなど、無かった時に、いきなり職員になってくれないかと、

言われた時、こりゃなんだかオカシイな、

と、想い始めたのだった。それで、ハッキリと断った。

そんな、だったから

ボクが入った当初から、そさんがいなければ、友の会としてのミーティングが

始まらなかった。

だから、今想えば、よくやれていたなと、想うけれど、

食事会は、木曜の夜の6時か7時頃だった。

その後、ミーティングをやっていた。ミーティングは夜の9時頃まで続いた

名目は、働いているなかまたちも、参加する、カラだったのだが、

ボクだって、働いていたもんだけれど、

でも、その働いているなかまとは、つまり、い病院で看護助手をしている、

そさんのことダッタと、想う。

もちろん、他にもいたのだけれど、まずは、そさん、だった。

そうそう、た診療所で働いているなかまも、いたわけだから、

医療従事者達の仕事が終わってから、会議と云うワケだった

とにかく、彼がいなければ、大事なことは、ナンにも決まらなかった

そりゃそうだ、やすらぎの里作業所の所長でもアッタわけだから

今から想えば、そさんがつくり、そさんが指導する患者会と作業所と言って

過言ではなかった、と想う、そう、ソレが実情ダッタ

そう、だから、これほどまでの

「見えにくいアクジのハンニン」とは、一番身近に居たわけなのだ

とにもかくにも、そさんと友の会のみんなとの関係は、

ボクも含めて、それはそれはトンデモナイものだったと、今なら、想える。

そしてそれは、その時には、結果としては、そさんがもっともシビアーな

アルコール依存症になってしまい、想像を超える無茶苦茶になった。

はっきり言って、あのママでは、

何人かが死ぬことになり、二家族ほど崩壊してしまい、

前進友の会やすらぎの里も空中分解するところだった。

その寸前で、ぎりぎりで、そさんが、退職して行って

アルコール依存の治療に専念することで友の会は生き延びたのだった。

その後、そさんは、滋賀の方で、ゆという就労継続支援B型と、

ケアハウスを何か所かと訪問看護の事業所の複合的な

精神科福祉施設を作り上げ運営している。

やはり、彼が目指していたものは、アレダッタのかと、そう想う。

患者会の方向ではなかったことだけは、確か、なのである。

講演なども行っているようだ。そしてまた、酒を飲み始めていると聞いている。

 

さて、そさんがいなくなった後の前進友の会やすらぎの里は、

みさんを中心とする体制で運営されることとなった。

みさんは、

やすらぎの里的には、スタッフで、

前進友の会的には、ボクとともに書記部であった。

ただ、そういうことだけではなく、

みんなの部屋のすべてが、みさんを中心に動くようになった。

そして、誰もが、みさんを頼りにするようになった。

それは、そさんがいるときからも、ソウだったのだが、

そさんがいなくなってから急速にソレは深化していった。

どういうことかというと、みんなの部屋のなかまたちの自立心と生活力が、

どんどん低下していくのである。

みさんが、スタッフとしても、友の会の第一世代活動家としても、

頑張れば頑張るほど、ソウなっていくのであった。

もさんも、れさんも、とにかく多くのなかまたちが、なーんかどんどん、

みさんに精神的にもセーカツ的にもどんどん頼っていくのである。

みさんの濃厚な愛に包まれながら。

この経過で違和感を感じていたのは、ボクだけのようであった。

なんだか、とても立派なスタッフが、自分の生活も、

自分の家族も犠牲にして、患者さんのために尽くす、

というような愛に満ち溢れたセカイが出来上がっていった。

みさんも、なかまたちにむかって、

家族を犠牲にしていると、公言するようになっていった

特に、子供たちを犠牲にしていると

特に、生まれたばかりの娘を友の会のために、殺そうと思ったのだ、

と云うようなことを、声だかに言うのだった。

みんなの部屋でも、そして、そして、ついには、集会でも、言ってシマッタ。

聞くたびに、ナントイウか、なんというか、

信じられない、と云うか、ソウゾウを絶すると云うか、

ソンな想いを噛みしめていた。

聞かされる、こちらの身にも、なってみると、どう想うか、

こうなると、ナンダカ、とてつもない、セカイなのだった。

オソロシいシロモノだった。
でも逆に、とくに外から見てたら、とても、素晴らしいスタッフと云うふうに、

見えただろうと想う。

ところが内実はとてもタイヘンで、

ヘンテコなタイヘンと云うか、タイヘンなヘンテコと云うべきか、、、、

とにかく、なかまたちはどんどん依存的になり、

みさんは、どんどん依存させるように立ち回り、

そして、みんなから依存される、みさんにとっても、

キブンは良く、ヤリガイも在る、と云う、トコロなのだろうが、

そんなことが長く続くわけもなく、みさんは欝にはまっていくのだが、

そこでやめられるわけもなく、どんどん抗うつ剤をいれて、

さらにガンバルということになっていった。

もちろん、そんなこともまた、長く続くわけがなく、

依存することを覚えてしまったなかまたちは、

さらに、みさんに覆いかぶさっていき、限界が来たみさんが、

ときどき、誰も手伝ってくれない、と、泣きわめく、

という事態が頻発するようになったのである。

みんな、みさんを、宥めるのに、必死だった。

ダカラ、手伝おうとした、そう、手伝おうとしたのだ。

手伝おうとシタンですよ

でも、手伝う?手伝うって、それは無理だったのである。

なぜなら、みさんに、ハナシを聞いてもらい、みさんにナニかをしてもらいたい、

と云うことだったのだから、だから、他の人がやってもダメだったのである。

みさんでなければダメだったのである。

それで、事務シゴトなどを手伝おうとしたら、それもダメだったのである。

積極的に事務シゴトを手伝おうとするボクも含めて何人かのなかまに、

こう言うのである。

「私の仕事を取らんとって」「私がいらないの」こう言われてしまえば、

もはや推移をみまもる以外なくなくなってしまう。

もし本当に、手伝い出来そうな人が出てくると、ツブしたのである。

やる気も、段々無くなってくる、

それどころか、その方向で泣きわめきそうになる、みさんを、

なだめすかすのがタイヘンなのであった。

そして、そう、トランスジェンダーを名乗るびさんがアルバイトスタッフとして、

新しく入ってきて、みさんと意気投合したとき、

新たなる極彩色の愛に満ち溢れた七色の地獄の釜が開いたのである。

もうこれ以上、コレから先は語ることが出来ないと想う。

友の会のみんなにとっても、えばっちにとっても、

ここいらへんがゲンカイである。

しかし、それでも、ココマデは語らねばならぬ、

アレから、十年以上はたったのだ。

その間、友の会側は、沈黙を守りとうしてきた。

あの時の、その被害からも、なかなか、立ち直れぬまま、

アノことを書こうと、想う。

今から想えば、ヂゴクの釜が開いたと云う、形容がピッタリな状況になっていく。
その時、びさんが、まさか、みさん、と云う、第一世代を代表する女性スタッフと

一緒になって、アレホドの事態を招こうとは、想いもよらなかった。
大概、今までの場合、びさんタイプと、みさんは、対立するのが、フツーだったからである。実のところ、友の会に女性が少ないのは、みさんと合わない女性は定着しようがなかったからなのである。例えば、そう、よさそうな、若い、溌剌とした女性アルバイトスタッフ候補が来るたびに、男性陣は、ドキドキハラハラしたものである。何時みさんが、ケンカを吹っ掛けるか、イヂメを始めるかと。ところが、この時はチガッタ。あれは、レズか、と云うような、びさんとみさんのさわりっこの中、事態は、ドンドン深刻になっていくのであった。
びさんが言うには、自分は、トランスジェンダーと云うもので、男でも女でもなく、如何なる性的な法律や規範や道徳には、縛られないんダトいう。だから、男とも、女ともセックスするし、何人もの人とセックスするし、同時に複数の恋人がいるのも、当たり前なんだそうである。。
しかも、見た感じは、はっきり言って、

とっても魅力的な女性ソノモノなのであった。
最初にびさんが、提起した問題は、男便所と女便所を区別していることが性差別に当たる、とかいうことで、便所を男女共用にすべきだ、と云うトコロから始まった。そして、それは結構な議論になった。今想えばバカバカしい限りである。だが、しかし、元気な若いやる気のある魅力的な女性スタッフの魅力たるや絶大なものであった。ついには、おとこもおんなも、びさん中心のピンクサロンのようになっていった。それは、想像を絶する状況で何人かの古いナカマたちから、こんなところに来るのはもうイヤだ、から、びさんはワシと結婚してくれると約束してくれた、から、家族も友の会もみんな捨てて、びさんと駆け落ちするんだ、とか、これは、みさんがみんなの前で放言していた。

まさに想像を絶する事態となり、

ナントイウか、本当に、タイヘンなコトになっていったのですよ。

複数の人死にの可能性が出てきた。
誰かが、想いきって、やらなければならない時が、迫ってきていた。
そして、それは、徹底して、、、、そうそれは、

友の会唯一のアルバイトスタッフの強制退職、と云うモノになった。
この時の傷はいまだに癒えていない。
現在の友の会のみんなの部屋のは、未だに、この傷から、いかに脱却していくかという過程の中にある、と言っても過言ではない。この時の傷は十年以上経った今でも癒えていない。オソロシイことである。

今でも、言われるのである。

二十年間、同じ場所に座り続けて、余り話すことなく、余り目立つことなく、

みんなの部屋を、見続け居続けてきた、なかまから、こう言われるのである

あの時、えばっちは、もっと早くになんとかすべきだった、えばっちが、やるべきことをサボって、肝心なことをやらないできたからなんや、と。そして、あの時も含めて、わたしは二十年間、みさんに、イヂメられ続けてきたようなトコがあるノンやで、と。まさに、、、、あのヒトがね、なにか気に入らない、となったときはタイヘンやったんやでと、えばっちやら、ださんやら、うちゃんがいないときこそ、すごかったんやでと。びさんとのいちゃいちゃも、あんたたちがイナイときこそ、ドンナやったか、えばっちやうちゃんは本当のところを知らんのや、と、言われたのである。

わが身の不明を恥じるしか、ない、と、想った。

 

さて、だから、良心的医療従事者や、

良心的精神福祉従業員たちが

あまりにがんばり、あまりに評判が良いと、

そして、あまりに、病者や患者さんのためとやりすぎるのは、

良いことは、決して決して、生み出さないと想う。

特に、恣意的で自慰的で示威的に患者の立場で

代弁をはじめたとき、

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特に医者は、侍医的に患者の立場で代弁をはじめたとき、

そこにあるのは、病者患者の尊重ではなく、かえって

病者患者自身の

「自主自立」「自主集合」「自炊会食」

「自問自答」「自己自称」「自由独立」

「団結礼信」「交友仁義」「自尊自衛」

「自陣自闘」「自暴自棄」「自生自傷

「自行自白」「自縛自放」「自存自営」
「自遊自レク」「自己決定」「自己滅裂」
しようとする、

キチガイの牙を抜き飼いならす第一歩に為るのだと想う。

それが、

見えにくいアクジ

良心的医療従事者

良心的福祉従業員

すり替えアクジのハンニンたちが

陥るドツボなのだと想う。

その特徴的な姿は、『評判の良いデイケア』に行ってみれば

一目瞭然、一目利用善である。

自分たちは良いことをやっているツモリなんだろうが、

なんのことはない、

善意こそが地獄への道を舗装しているのである。

この場合、特に善意こそが

愛に満ち溢れた七色の地獄への道を舗装しているのである

確かに、この舗装された道は歩きやすい。

しかも、極彩色に綺麗なものなのである。

で、歩きやすいがゆえに、

結局は天国のような地獄にまっさかさまナノである

だからこそ、ソコを気づいてシマッタ、われわれは、

歩きにくい茨の道を選んだのである。

それが、キーサン患者会であり、

キチガイが街に居座り街で居直る、ということなのである。

だから、われわれは本質的に、

どのような善意であろうが、良心的であろうが、

力の続く限り、見えやすいアクジと対するのと同じように、

いや、それ以上に

見えにくいアクジとすり替えアクジのハンニンたちに、

牙をむいて襲い掛かっていくのである。

すくなくとも、そのアクジをこれでもかこれでもか、と、

暴露していくのである

善意に満ちた七色の地獄アクジの暴露なのである。

まさに、良心的にガンバッテいる良心的スタッフのみなさんの、

七色天国的見えにくいアクヂ地獄すり替えアクジストレス解消法を余すところなく、

糾弾暴露し続けるのが

キーサン革命なのである。

 

わしらキチガイは、アンタラの飯のタネやないで

わしらキチガイは、アンタラの信仰の証明のネタやないで

わしらキチガイは、アンタラのストレス解消のネタやないで

たいがいにしとけよ、この、アホンダラが

バカバカしいったら、アリャア――しないよ、まったくさ

気付いてしまえば、バカらしいったら、

アリャア―しないよなーーまったく

だから、叫ぶしかナインだよ

 

キーサン革命バンザイ

キーサンンーーーンンンーーーーンンンンン革命バーーーーン

ーーーザーーー

ーーイイイイイイ

イイーーーイイイイイイイイイーーーーイイ

バンザーーーイイイーーーイイイイイーーーーーイイイイイイイイイイイイイイイイーーーイイイイイーーーイイーーーイイイ



2015/1/23 起稿  前進友の会えばっちより



精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所

あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起

 

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銭コロ「こころの臨床学会」の奴等に 与ふる書三題 銭コロ「こころの臨床」の奴等、 ゼニ豚増田さやか、銭ゲバ酒木保、銭コロ實川幹朗、 ゼニ豚戸田弘子、銭ゲバ金田恆孝、 オマイ等恥を知れ

銭コロ「こころの臨床学会」の奴等に

与ふる書三題

銭コロ「こころの臨床」の奴等、

ゼニ豚増田さやか、銭ゲバ酒木保、銭コロ實川幹朗、

ゼニ豚戸田弘子、銭ゲバ金田恆孝、

オマイ等恥を知れ

 

第一題「する側」「される側」が仮構に見えている愚かしさ

第二題ドチらが受益者なのか分かっていないお粗末さ

第三題触っていいモノと触ってはいけないモノのチガイも分からぬ腐れ外道さ

 

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絶対にヒトの『こころ』には、人間の『こころ』には、お前ら心理や精神医やらには、一歩も踏み込ませんぞ、触らせんぞ。この糞バカタレが。腐れ外道が。許せん。アホどもが。ソンなことも分からんのか、この外道ども。百億万兆歩譲って、心理やら精神やら、専門職を自称して国家資格があるとほざいているヤタラとヤカラな連中でも、触っていいモノと触ってはいけないモノがアルんやと云うこと、分かってないやろ。銭コロ「こころの臨床」の奴等、ゼニ豚増田さやか、銭ゲバ酒木保、銭コロ實川幹朗、ゼニ豚戸田弘子、銭ゲバ金田恆孝、オマイ等恥を知れ、この腐れ外道が、欺瞞に満ち満ちた外道ども、人間の『こころ』と云うモノはオマイ等が触ってはいかんもんなんや。それ分からんか。

 

 「国試対策講座」やら、「個別相談会」やらで、正月早々がっぽり儲けられましたかナ。「現認者講習」とはまたチゴうて、試験対策の自主講座たら、個別相談タラ、「現認者が受験できるチャンスは、あと四回」タラ、ように煽りますナ。とにもかくにも、ゼニ豚とはよう言うたもんで、ほんまに心理職の国家資格化でこれほどガッポリ稼いでいるのは、アンタ等をおいて他にはありませんがな。あろうことか、金田牧師までこんなことをクリスマスカードで言うてくるんだから、ナニを言っているんだ。ホントにどうしようもない。それでも心理職国家資格反対だというのなら、一体全体、国家資格化反対ということの意味が、まるきりハンタイなんじゃないですか。まぁ、それにしても、心理職の国家資格化で、よう、これだけアコギな、ゼニ儲けをせっせっと出来るもんですな。恥と云うモンを知らないとは、恐ろしいもんですナ。

 

 (2018/12/20 金田恆孝牧師からのクリスマスカードはがきの直筆部分)

「当会の一部が銭ゲバになっていることは認めます。」

 

この鬼畜心理拷問ゼニころテスト師ども。

鬼畜公認ゼニ豚心理拷問師ども。

その公認心理師の国試対策で、

国家試験対策講座でガッポリゼニ儲けとは恐れ入る。

 

 ところで、公認心理師国家資格推進でもって、荒っぽくゼニ豚になっていることとは別に、アンタ等、銭コロ「こころの臨床」の奴等、ゼニ豚増田さやか、銭ゲバ酒木保、銭コロ實川幹朗、ゼニ豚戸田弘子、銭ゲバ金田恆孝、オマイ等の言いぐさで、三点ほどキッチリと批判しておきたい、銭コロ「こころの臨床」の奴等に与ふる書が三題あるんで、よく聞きなさいよ。

 

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アンタ等、「する側」「される側」の虚構を仮構を排して、当事者の皆さんと共同協働を目指すというのが、アンタ等「こ
ころの臨床」の触れ込みのヨウなんだけれども、いい加減にしてくれや。仮構じゃないで。ゼニ豚ども、よう聞け、精神病患者を相談来談者を飯の種にしてるやないか。飯のタネの側と、それで銭儲けして、専門職として年収200万以上あったら、仮構の構築でも、虚構の構築でもないやろ。診察室でも、相談室でも、テーブルをはさんでそちら側とこちら側じゃ、壁はうず高く、河は、そう大河が流れているんじゃ、それ分からんか。金銭面でも、社会的地位の面でも、親の納得の面でも、ご近所さんの納得の面でも、警察の職務質問にひっかけられた場面でも、交番署に落とし物の届を提出する場面でも、交通事故の現場検証の場面でも、あと市役所でなんかの書類を貰ってくる場面でも、全然違うやないか。対応もチガウシ、人の目もチガウシ、経済的にも違うし、社会的な信用の面でも違う。それで、「する側」「される側」の虚構を排して共同協働すると言われても、なんだか、うそ臭いやろうが。器用な嘘臭さと云うヤツやな。

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しかも、ゼニ豚銭コロ「こころの臨床」の外道ども、受益者は、病気の障害のワシ等の方やと言うてるわな。オマイ等の腐った心理学のサービスの受益者がワシ等だと言ってるわな。いい加減にせなあかんぞ。受益者はお前らや。専門職と称するお前らや。ドーとデも為るような、心理学タラ精神医学タラ振り回して、人の人生を滅茶苦茶にしておいて、人の頭に電気を掛けておいて、人を強制収容所に閉じ込めておいて、四肢も拘束しておいて、地獄の拷問のような心理テストをしておいて、カウンセリングという名の心理拷問もしておいて、ガッポリ稼いでいるのはお前らの方や。一体どっちが受益者なんや、この糞アホども。現任者講習の受益者とはオマイ等じゃないか。国試対策自主講座の受益者とは、オマイ等やないか。ガッポリゼニ豚として、稼ぎまくっとるやないか。

どっちが、受益者ダト、、、、ふざけるな。

一度、精神病院に入れられたら分かる。

一度、看護士にヤキ入れられたら分かる。

一度、カウンセリングさせられたら分かる。

一度、心理テストを受けさせられたら分かる。

そのうち裁判所命令で、カウンセリングさせられる時代が来そうや。

そのうち裁判所命令で、心理テスト受けさせられる時代が来そうや。

恐ろしいワイ。

この鬼畜心理拷問ゼニころテスト師ども。

鬼畜公認ゼニ豚心理拷問師ども。

その国試対策で、ガッポリゼニ儲けとは恐れ入る。

 

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 最後にな、ワシは「こころの臨床」には大反対なんや。オマイ等は、『こころ』の臨床や云うんで、良いように捉えてるんだろうが、ワシから言わせりゃ、ふざけるなや。ワシはこれまでどうしようもなく精神科にかかってきたし、クスリも飲んできたが、精神病院に入院させられてきたし、心因反応から始まってアスペルまで散々病名を云々カンヌンされてきたが、ハッキリ言う。どうしようもなく精神医療や心理臨床や臨床心理があったとしても、どうしようもなくワシの精神や心理を云々カンヌンさせられてきたけれども、百億兆万歩譲って精神や心理を云々カンヌンさせられ、クスリ突っ込まされたりして、心理テストさせられたりして、もや、されてもや、ワシの精神や心理をオモチャにされてきたけれど、言うとくぞ、言うとくぞこの腐れ外道ども、ワシの『こころ』には、指一本触れささんぞ。ワシの『こころ』には、一歩たりとも踏み込まさせんぞ。ワシの『こころ』には、一度たりとも臨床させんぞ。言うとくぞ、言うとくぞ、お前ら外道の腐れ切ったゼニ豚公認心理師国家試験推進ども、ワシの『こころ』には一寸たりとも近づけさせんぞ。ワシの『こころ』を云々カンヌンできるのは、ワシ自身とお釈迦様だけじゃ、アホンダラ。何が『こころ』の臨床じゃ。何が『こころ」のクリニックじゃ。何が『こころ』の風邪じゃ。精神や心理までなら許したろ、百億兆万歩譲ってな。

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ただし、絶対にワシの『こころ』には、いや、人間の『こころ』には、お前ら心理や精神医やら学校の先生やらには、一歩も踏み込ませんぞ。この糞バカタレが。腐れ外道が。許せん。アホどもが。精神や心理だけやのうて、今度は人の『こころ』まで、おもちゃにしよんのかい、この糞馬鹿垂れの心理屋外道ども。

クタバレ外道が!!!!!この腐れ心理屋外道ども!!!!!!!!!!!!!



2019年初春  キーサン革命の鬼こと えばっち江端一起



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イマの今時に「心神喪失者医療観察法」に ハンタイするために そしてなんとしてでも「電気ショック」を廃絶するために 含む  「障害者自立支援法」「敷地内退院支援施設」に ハンタイするために

イマの今時に「心神喪失医療観察法」に

ハンタイするために

そしてなんとしてでも「電気ショック」を廃絶するために

含む 

障害者自立支援法」「敷地内退院支援施設」に

ハンタイするために

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 このままでいくと、日本中、重保安病棟、中保安病棟、軽保安病棟だらけになりそうです。大阪のさわ病院の澤温の「スーパー救急病棟」を含めて考えれば、もうそうとしか想えない。そうすると、それは一次医療圏から五次医療圏、もしくは六次医療圏という十余年程前の『制度政策提言』を取り入れたモノになる。

森山、卜部らのだした、厚生省科学研究班の報告「今後の日本の精神医療に関する研究」、精神神経学会の「精神保健推進十カ年計画」を見てください。そもそもの「処遇困難例の研究」を出しやがったのは、中山に、道下ときた、「プシ共闘」とはなんだったのか、電気ショックまでし続けていたではないか、えばっちのただでさえイカレたこのクソドタマに、血がのぼるぞ、ほんま。こんなことなら、なんも、せんとってくれたらよかった。

 

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例えば、一次医療圏がクリニックとACTなら、二次医療圏が民間精神病院となる。それが例えば六次医療圏が日本に二つから四つの重保安病棟なら、五次医療圏は全国二十四カ所と言われている「観察法」の新病棟となる。四次医療圏は、全国の都道府県にばらまかれる十五床づつの病棟になる。もしくは「スーパー救急病棟」とすると、三次医療圏は、民間精神病院のなかで、応急入院の指定、あるいは「観察法」の強制通院先に指定された、もしくは各自治体で自主運用されている精神科救急システムの受け入れ病院となるではないか。みんな争って、手を挙げて受けていくこのアリサマ。どこが「反対」なのか。

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 ご丁寧に、今は、「層構造」と言っているらしいですが、「五層構造」とか「六層構造」とか、言っているのでしょうか。ひょっとして、この言い方も、ゼンイに満ちあふれた「良心派改革派」が「欧米」に学んだのでしょうか。自らで提言し、自らがソレを受けていくミニクいアリサマです。

 

2007年3月21日     

精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所

あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起

 

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