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キーサンセーカツ列伝 第一章 もさん列伝  精神病院でもシャバでも突き抜けた生き抜くチカラ

キーサンセーカツ列伝 第一章 もさん列伝

 精神病院でもシャバでも突き抜けた生き抜くチカラ

 

もさんは、80歳を超えていただろうか、、、

ぼくと、もさんの付き合いは長い。

もさんは、怒りん坊である。いつも、気に入らないと、

怒鳴りだす。

外で、道を歩いていて、

うるさかったら、カラスに喧嘩を売り、

そして、トラックやバスにも喧嘩を売る。

カラスにケンカを売っている姿は、スゴいものだった。

機能性難聴との診断で、障害者手帳も、持っていたが、

本当に、難聴だったのだろうか、知的障害も、あると、されて、いた。

肉が大好きで、すき焼きが大好きで、ぜんざいが大好きで、

川魚が大嫌いだった。

食事会がない時は、いつも近くの千成で、食べていた。

千成の、すき焼き定食が贅沢だった。

その千成も、店じまいをした。

今、もさんが、シャバで暮らしていたら、如何しただろう。

生きることに、貪欲で、よく、怒り、よく笑い、よく食べた、

そして、好きななかまには、

徹底して、人懐こく、接するのだった。

くちゃんが、大のお気に入りで、「くちゃんは、かわいいなぁー」と云いながら、ほっぺをナデナデシュリシュリしていた。

好悪の感情が、ハッキリ過ぎるくらいにハッキリとしていて、

いつも、ニクマンの中心にいるのだが、

案外、誰からも、本気では、憎まれ、は、しないのだった。



何人かで、自主的に海津温泉と云うところに二回か、三回、か、行ったことが、あるのだが、そこは、よく考えてみたら、木曽三川の交わる輪中地帯で、川魚料理が有名だった。アユや、マスや、ナマズ料理まであった。怒り出すかと想ったら、温泉に連れてきてもらった、と云う、ことで、大喜びしていて、嫌いな川魚には、一切手を付けないと云うことだけだった。

怒り出すかナと想ったんだが…。

たしか、海津温泉旅行の一回目の時か、えばっちの運転で、うちゃん、ふさん、そして、もさんとで行った。なまずのかば焼きが名物で、ぼくたちは喜んで食べたのだが、もさんは、「嫌いや」と言ったきり、手をつけなかった。だが、旅行自体は、とても喜んでくれて、途中で寄った養老の滝での記念写真が残っている。温泉の前で踊っている、もさんとえばっちの写真、それにうちゃんがふさんに四之字固めをかけている写真が最高である。

確か、二回目の時は、アルバイトのに君、うちゃん、うクリニックのたさん、そしてい病院に入院中の、なさんだった。なさんの退院に向けての一環ダッタところがあって、もさんも、さかんに、「連れて行ってぇなぁーつれってってぇなぁー」、と言っていたのだが、普通車の定員五人だったから、ムリだったのである。

それで、三回目だったかの海津温泉への旅は車2台で行った。えばっちの車と、そのときアルバイトスタッフだった、に君の車とで、2台である。総勢8人で行ったのか。会計はアルバイトスタッフのい君がしてくれて、い君の友人が来てくれたおかげで、ちさんと、一緒に行くことができた。入院中のなさんも、あっさり病院側が外泊を許可してくれて、今だったら家族以外はダメだと言うだろうが、このときはあっさりしたものだった。

やすらぎの里でもなく、前進友の会でもなく、

アルバイトスタッフの若者2人とえばっちの勝手にやった、

冒険旅行だった。

もちろん、もさんは最初から行く行くと言っていた、

一番の言いだしっぺ、と云うか、行きだがりっぺ、なの、だった。

赤茶色の硫黄臭のする塩味のすばらしい湯だった。

地元の人たちが、廊下に、毛布を敷いて、一日中、温泉に入っていた。

ぼくたち、泊まり客は、その間を、よそ者ですが、一緒に入れてください、と云う

カンジで、入りに行くのである。

その雰囲気が、ヨカッタ。実に、リラックスなのであった。

もさんも、なちゃんも、こさんも、じちゃんも、リラックスしていた。

このときの記念写真はお宝ものである。



もちろん、もさんは、友の会の夏レクには、

最初の参加以来、全てに参加しているのである。

どのような、場合でも、どのような、場所でも、

晩御飯、朝御飯、いつも、きっちり、食べていた。

旅行が大好きで、列車が大好きで、ドライブが大好きで、

えばっちに、七人乗りの車を買え、と言うのだった。

何処かに行く、となれば、必ず、一緒に行くとなり、

何週間も前から、荷物のシンパイをはじめるのだった。

想えば、90年代、東京の集会に行くとき、いつも一緒に行っていた。

東京の集会に参加した回数は、もさんと一緒が一番多かったと想う。

だから、東京のいろんな団体が、前進友の会のもさんを、良く知っている。

確か、新松にも、街にも、八王子ホットにも、もさんと、泊まっている。

どんな集会や学習会でも、ニコニコして、座っていた。

ハッキリ言って、中身には一切興味はなかったと想うが、どこかに、お出かけすることが、大好き、ダツタのである。

みんなの部屋の中で、東京行きのハナシが出ると、ワシも行くと、必ず言う。

新幹線も大好きだった。若い時の仕事が、機関車の火夫、つまり、機関車の缶の中に石炭をほうり込む、重労働だったから、苦労も多かっただろうけれど、

とにかく鉄道に乗ってどこかに行くと云うことが、大好きだった。

えばっちのクルマにも、たくさん乗って、よく遊びに行った。

どれだけ、行ったか、ワカラナイ。

車でナニか用事で、行くとなると、かならず、

「乗せて行ってや」「連れて行ってや」と言いつつ、支度を始めるのだった。

 

2000年きっかりに、街がやった、チャンプラリズムへも、一緒に行きました。

上野でした。上野駅から、水上音楽堂まで、歩いていく途中で、

確か渥美清さんの手形が、あったのです。もさんが、手を当ててみました。

それが、ピッタリなんですよ、オドロキマシタ。

あれは、いい想い出だなぁぁーー

そうそう、2002年3月24日の、あの、観察法反対の集会と、デモにも、参加しました。あの時は、もさん、くちゃん、ざ君、と、友の会は、何人で参加したのか、そう、確か、集会でも、発言したのでした。なかなか、凄い発言で

「も◯し◯◯じと、言います。ら病院に何十年も入院していました、今はやすらぎの里におります」と、反保安処分集会で、ヤツタのだった。この発言の凄みが、あの集会で、どのくらい伝わったのだろうか、、、、、その後は、結構激しいデモでしたが、終わった後、もさんは、ニコニコして、解散場所の公園で、踊っていました。例の「かけがえの前進」を撮っていたころだから、あの解散場所の公園での雰囲気、映画になっていたら、ヨカッタ、と、想う。あの頃のもさんが、一番元気でニコニコしている、姿、だったと、想う。



自分一人でも、よく出かけた。

一度なぞ、新幹線で、博多まで行って、すぐ帰ってくる、と云うこともあった

みんな、ビックリ、した。

亀岡にある、お墓には、始終行っていた。

アレほど、頻繁にお墓参りに、行く人は、居ない、と、想う

みんなの部屋に来たときには、もう「お墓行ってきた」と言うのである。

いつだったったか

もさんに、こう言ったことがアル

「もさん、ソンなに、お墓行くんなら、ジブンも、いずれはソコヘ入るんか」と、

聞いたのである。

もさんの答え、たった一言、こうであった

「アホ抜かせ」

ジブンが死ぬことは、まったく、想定していないようであった。



綺麗なかわいいお姉ちゃんが大好きで、

だから、看護婦さんやヘルパーさんが

若い、かわいいお姉ちゃんだったら、それだけで、もう

ニコニコなのである。

同じなかまのミスターMや、

こさんを嫌いぬき、ミスターとの間にMMニクマンと云う、言葉を生み出した。

こさんが、ある時、やすらぎの里から出るとき、靴がないと、大騒ぎになった。

階段の下に、靴が放ってあった。もさんがやったのであった。

次からは、こさんの靴を、どこかに隠すようになった。

そのたびごとに、こさんの靴さがし、である。

なので、とうとう、こさんの靴を別保管しておく、と云う仕儀になった。

それでも、こさんも、もさんも、友の会のみんなの部屋に居るのだった。



宇治の方にある、こ、と云う、重度心身障害者通所援護事業、と云うコトだったのだが、六年ほどアルバイトをさせてもらった事がある。そこの面接に、今からすると、ムチャクチャだが、一緒に連れて行ってや、と云う、もさんと一緒に行った。そこで、二人で、ストレッチなんかして、もさんは、すぐに、ソコが、気に入った様子だった。それが良かったのか、すぐ採用された。あのアルバイトは、もさんのおかげで、なれたようなものだ。あとで、親方のし施設長が、お主任が、そう言っていた。

もさん、ありがとうな。おかげで、アルバイト先が、見つかって良かったよ。

 

ともかく、小柄だが、がっしりとした体躯の、喜怒哀楽の激しい

難聴で、知的障害で、生きるエネルギーに満ち溢れていた

もさんが、

なんと、三十年近くも、府立ら病院に、入院させられていたのである。

家族に、弟さんに、入院させられていたのである。

強制入院である。

家族による、同意入院である。医療保護入院である。

人生で、一番いい時、30年近くを、精神病院で、過ごさせられたのである。

友の会と、出合うまでは、退院はもちろん、

外泊もさせてはもらえていなかったようなのである。

その退院、アパート退院に至る経過は、

まさしく、前進友の会の第一世代たちの、素晴らしい、活動ダッタと、

そう想う。

主治医は、プシ共闘の御大、お医師だったのである。

リクツや、メダツトコロや、国会の参考人や、講演会や、ナンタラ反対集会やら、学会の理事職を確保することよりも、医師としてヤルベキことがアッタのではないのか、と、そう想う。プシ共闘系の活動家ダッタ精神医達の欠点だと、そう、想う

50歳近くになって、やっと、シャバで暮らせたが、

70歳くらいから、だんだんと、シンドくなり、

結局は、精神病院に、戻っていったのである。

それなら、元々いた、ら病院に、最初は、戻って、行ったのではあるが、

そこで、閉鎖病棟保護室で、四肢拘束の五点張りをされていた。

もさんは、その府立ら病院から出られたとき

「シャバにきた」

「看護士にきつうにヤキいれられたわ」

と言っていた。

友人面会も、禁止だ、と云う、ことだったから、コレは、アカンと判断して、

それで、い病院に転院することになり、今に至るのである。

プシ共闘の拠点病院だった府立ら病院が精神科救急に特化していく

過程での、悲惨な、転院劇だった。

2005年のコトだった。

だから、もさんとの最後の旅は、アレは、確か、05年6月の阻止共闘の集会で、アノ映画「かけがえの前進」の上映会、だったはずで、

その時は、ざ君と、もさんと、三人で行って、上映会に参加して、新松に、泊まらせてもらった、と想う。その時は、東京暮らしをしていたくちゃんと、再会し合って、上機嫌だった。

近くのラーメン屋さんに、新松のみなさんと、多勢で行った。

その時の、記念写真に、もさんが、写っている。

この旅が、元気だった、もさんとの、サイゴの旅、

と云うことになるのかもしれない

 

05年の入院から、2010年のSIADHで倒れる間の

ぼくたちは、もさんをずっと入院させ続けていたわけではない。

そう、確か、落ち着いてきたら年に3度か4度は2泊3日から1週間ぐらいの外泊はいろいろと試行錯誤しながら、友の会みんなで話し合いながら、挑戦し続けていた。

最初のうちは、もさん自身がアパートに帰りたいわーと言っていたし、友の会のみんなも、なんとか後数年はシャバで暮らせないだろうか、とみんなが想っていた。とにかく、ありとあらゆる手段を使った。訪問看護も、ヘルパーも入れていった。ふと気が付くと、入院中のい病院だけではなく、近くのいわゆる社会資源なるものをほとんど網羅していたと想う。だから、もさんの外泊に向けての打ち合わせ会議が大変だったのである。い病院のPSW訪問看護、入院中の病棟の看護、ヘルパーの派遣事業所のケアマネ、サビ管、ヘルパー、福祉事務所のケースワーカー、が、とにかく集まって話ししなればならなかった。段取りをする人間も、会議場所の提供も、前進友の会がやったのである。

だから、友の会のみんなの部屋で上記の専門職たちが一堂に会し、友の会のほうも希望者は自由参加だったから、それは、すごい会議だった。

一度や二度ではない、結構何回もやったと想う。

そうやって、もさんの、外泊や退院に備えたのである。

そう、あれは2007年、もさんもまだまだ元気だった。友の会の食事会で晩御飯を食べ、土日は訪問看護が来ることになっていた。その、2泊3日の、もさんの外泊のためのクスリが、あまりにひどすぎた。いろいろいきさつはあるのだが、訪問看護のクルマの窓ガラスをかち割って、そのクスリをつき返してやった。

もちろん、そのあと、警察の取り調べと現場検証を受けることになる。

そうそう、もさんの外泊退院のときの、愉しい想い出も書いておこう。

もさんが、すき焼きが大好きだったので、外泊中にスタッフのて君が腕によりを掛けたすき焼きをこしらえた。もさんと、えばっちは、大喜びだった。バクバク肉を食べたものである。安い肉をあれほど美味なすき焼きにする、て君の手並みはすごかった。

ヘルプに入ってくれた、や君のねぎの切り方が、あまりにもひどく、これは、いまだに語り草になっている。みんなの部屋で、何人かでもさんの添い寝をしたのである。

 

そうそう、あのえばっちが発狂した簡保と云う職場にも、もさんと一緒に行ったことがある。確か、カレンダーだか、石鹸だか、を売りに行ったのだと想う。もさんが、一緒に連れて行ってくれと云うので、一緒に行った。そして、カンポの古いナカマに、モノだけ渡すと、帰ってきたのだが、それでも、末端管理者どもが、大挙して下りてきて、囲まれる中でのコトだった。

みんなの部屋に帰って来て、もさんに、簡保どうやったと聞いた。

えばっちが、発狂したトコなんやで、と、言って。

そのもさんの答えが、ふるっている。と云うか、真実を言い当てている。

「あそこは、精神病院やったんか?」

大挙して管理課から下りてきた末端管理者連中が、

ヤキを入れに来た看護士の一団に見えたことは明明白白の事のようだった。



もさんの、名語録を紹介しておきたい

「しまつせなあかん」

これは、つまり、倹約、節約しなければイカンと云う、ことで、セーカツぶりは、とても、つつましやかなもので、質素で、あった。誰かをヤレ、と云う意味ではない。今どきのケースワーカーたちに、やいやい言われなくても、この世代の、もさんのような、人たちは、ちさんたちも含めて、実に、つつましやかな暮らしぶりだった。それなのに、あの福祉事務所のワーカー達といったら、、、、

「出面(でづら)だしといてや」

これは、作業所の出欠表に、出席しました、書いておいてくれ、もしくは、出欠表を確認しといてくれ、と云うことである。日雇い人足を、日雇い仕事を、ヤッタ事のある人なら、お馴染みの文句であろう。時々、チャント言わないと、ワルい親方は、出面を誤魔化すのである。もさんも、誤魔化された口なのであろう。

えばっちのいくつかやったシゴトで、付いた親方たちは、

でづらに関しては、マシな方だった、とそう想うが、念のため、

オレも、もさんと、一緒に言っておこう

「でづら出しといてや」「出面、誤魔化さんとってや」

「でづら、ごまかさんとってや、たのむで」

出面誤魔化すような親方には、当たりませんように、お願いシマッサーー